知的生活の方法

Date
3月, 30, 2018

著者:渡部昇一
出版社:講談社
発行日:1976年4月20日
形態:新書

 

「ほんとうにおもしろいと感じるものに出会えたら、祝杯を上げればよい」

ある刺激に対して、 「意味を見つけよう」とか「しっかり理解しなきゃ」とか思ってしまうことがある。ただそのくせ、印象すら憶えていないことも多い。これでは知的新陳代謝がよろしくない。立ち止まると「自分は自分」って思うのに、歩くとおぼつかなくて崩れる。目に見える問題は何もないが、悶々するのでいかん。いかんぞ!

刺激に悶々させられるのに、救いを求めるのも刺激という悶々はさておき。

読んでいてぞくぞくするか、「読み終えたい」と「読み終えたくない」が混じっているか、もう一度と言わず何度でも読みたいか、自分の本として所有していたいか、を指標にすれば、無理に受け入れようとしなくてもよい。らしい。

ほんとうにおもしろいと思える本は、そこらじゅうにほいほい存在するわけではない。 だからこそ、会えたときはにんまりしよう。

言われてみればそうだ。カミュとニザンはぞくぞくしながら読んだ。サルトルとウィトゲンシュタインは、(解説のサポートのおかげで)言葉が頭の中でぐわんぐわん反響して、きもちわるいくらいだった。

そうかそうか、私の「おもしろい」は身体的なのか。と思えたら、中身のない本を読んでもイライラしなくなった。ふむ、と呆然としている自分をおもしろいとすら。

熟練したら、毎日ぞくぞくが続くんだろか。希少な「つまんない」がおもしろくなるんだろか。 「ぞくぞくに囲まれてうはうは」がないからわからんけども、きっと相対的な価値だと思うので、混淆自体はよしとしよう。ぞくぞく発見頻度は自分でなんとかしよう。

人間関係にも似てる気がするが、応用は別問題。