小さな倫理学入門

Date
12月, 04, 2020

 

著者:山内志朗
出版社:慶應義塾大学出版会
発行日:2015年10月25日
形態:新書

 

倫理学の小さな入門書かと思ったら、「小さな倫理学」の入門書だった。
再読。
3年前は付箋を貼りながら、今回は鉛筆で線を引きながら読んだ。
付箋と線の箇所があまり重ならなくて、おもしろかった。
ハビトゥスについてはもっと知りたいな。

 

「小さな倫理学」は、次のようなものを指す:

pp.7-8
人間の弱さに眼差しを向ける倫理学もあります。古来、宗教者の中には、イエス・キリストや、中世の聖人フランシスコ、日本であれば親鸞などのように、「低くて、卑しい倫理学」を説いた人も少なくありません。蓮は泥の中に咲いて浄し、と言われますが、低いところで泥の中に咲く姿に私は心惹かれます。私がこの小冊子で記したいのは、そういう倫理学、「小さな倫理学(ethica parva)」なのです。過ちやすきものとして人間を捉え、その過ちやすさを人間の条件として設定し、その過ちやすさこそ、倫理性の条件と捉えるのも、西洋中世倫理学の一つの姿です。そしてそれは東洋にもあります。

 

勉強になったところ:

2章 欲望の倫理学
p.11
<もの>が不足していようと過剰であろうと、聖人であれ俗人であれ、人間は欲望だらけに見えます。だからこそ、人間は救済されるべき存在なのでしょう。欲望のない天使であれば救済する必要はありません。人間の欲望のなかでも生理的なものは別として、それ以外のものは構成されたに人為的なものです。典型的なものが「嫉妬」です。人間は欲望まみれに見えながら、実際には欲望欠乏症です。だから欲望を貪り求めます。人間は欲望を自分で生産できず、他の人からこっそり盗んできます。(……)嫉妬というのは他者から欲望を学習する機会なのです。(……)空っぽの主体は、自分の欲望の体系を構成していかなければなりません。

 

4章 <私>という苦しみ
p.22
信じることは未来を持ち続ける能力なのですが、対象が存在しないために、倒錯した欲望になりがちです。買い物をしたい場合に、買いたいものがあるから買い物に行くのではなく、買いたい気持ちを持つために、買うべきものを探しに行くことになったりします。これは倒錯した特殊な気持ちなのではなく、未来に向かう場合にはほぼ必然的にもつ感情なのです。なりたい自分に向かって未来に進むのではなく、なりたい自分を見つけるために、未来に進もうとしている自分のイメージを作り上げる必要がありますが、そのイメージを自分の内に作りあげるためにとりあえず未来に進んでみるのです。真っ暗な部屋の中で灯りのスイッチを探すために壁を触りながら進む状態、これが未来に進む人間の姿だと思います。暗闇での手探り(groping search)と言われるものです。

 

8 ハビトゥスを歌うこと
p.38
私が倫理学で語りたいことと言えば、ハビトゥスに始まりハビトゥスに終わります。倫理学はハビトゥスだと思うのです。
ハビトゥスとは何でしょうか。一言でいえば「習慣」なのですが、そう訳してしまうと抜け落ちてしまうところが山ほどあります。habere(持つ、所有する)というラテン語の動詞がありますが、ハビトゥス(habitus)はその過去分詞でして、「習慣、習態」などと訳されることが多いものです。ところが、「習慣」では、朝顔を洗って歯磨きするようなことの次元に収められそうです。ハビトゥスは能力と考えられるべきだと私は思っています。たとえば、英語や日本語を話すこともハビトゥスですし、泳いだり自転車に乗ることもハビトゥスなのですが、それを「習慣」と訳してしまうと奇妙になります。そして、愛もハビトゥスの典型例なのですが、それが「習慣」と訳されてしまうと、結婚式での愛の誓いは、口癖と同等のものとなり、随分安っぽくなってしまいそうです。
ハビトゥスは、habere(持つ)の過去分詞ですが、もっと正確に述べると、se habere(己を持する、である)という再帰動詞の過去分詞なのです。ですから、ハビトゥスは「持たれたもの、所有物、衣服」という意味ではなく(そういう意味で使われることもありますが)、己を或る状態に保ち続け、それが反復によって自然本性に近い状態になり、苦労しなくても現実に行動に表すことができ、それが安定した能力として定着していることなのです。

p.40
パスカルは哲学的に思考する自分を「考える葦」として表現し、しかもその立場にとどまっていてはならないと考えて、『パンセ(キリスト教護教論)』を著しました。
哲学は「考える」ことを基本としますが、それにとどまっていてはならないとパスカルは説きます。考えることはそれだけでは不十分なのですが、不十分であるにもかかわらず背負いきれない重しとなって人々の心にのしかかります。倫理学は、「考える」ことと同じ程度に、いやそれ以上に「感じる」ことを基礎とします。そして、この「感じる」ことは、そのつどそのつどの感覚的なものにとどまらず、反復と練習によって身についた「感情」によって能動的に感じられることを含みます。
感情もまた何度も経験され、教育され、訓練されなければ身につきません。感情もまた能力なのです。愛も恩も義理も、自然と身につくものではないのです。

p.41
ハビトゥスとは「己を持する能力(potentia se habendi)」のことです。

 

16章 倫理学も真理へと強制されるのか
p.76
善はきわめて多様なものです。

 

そして最後のあとがき

pp.101-102
哲学も倫理学も、内部にいる人にはその抽象性によって足にからんでつまずかせ、そして新しく踏み込む人々には小石を投げつけるように抽象概念をぶつけて怪我をさせてしまいます。傷つきやすさを重視し、傷つけないことを目標にする思想がなぜそんなことをしてしまうのでしょう。倫理を学ぶとは、マシーンになることではなく、風になることだと私は思います。
この本も倫理学が傷つけないことを目指すものであることを示すために書いたのですが、書いた本人は傷だらけで、読む人にもいばらだらけの本になってしまったかもしれません。人生はいつだって傷だらけです。ご容赦ください。