ラングザマー 世界文学でたどる旅

Date
10月, 19, 2020

著者:イルマ・ラクーザ
訳者:山口裕之
出版社:共和国
発行日:2016年11月10日
形態:単行本

Langsamer!
by Iluma Rakusa
2005

 

「ラングザマー」は「もっとゆっくり」という意味。
スピードが求められる時代の、スローダウンについて。
どんどん加速する世界でも、読書をすれば、人は自分の時間の流れ、遅さを作り出せる。

 

加速と距離を置く必要性を説いた本は、以前からいくつか読んできた。
ノートテイキング、ガジェットがテーマのもので、原文は英語のものが多かったと思う。
参考文献のページが多いと嬉しくて、あれこれと深掘りするのが楽しかった。
本によっては、オンラインでPDFが配布されていて、参考文献のウェブページへのリンクが列挙されているものもあった。

 

この本はドイツ語による読書論。
作家の発言や本の引用で気になったものがあっても、日本語では出版されていないものが多い。
出版されたことはあっても、現在絶版で、高値がついてしまっている。
英語への翻訳を調べたら、日本語のものよりも見つかった。
ああ、英語を経由すればドイツ語のものも読めるんだ、と、考えてみれば当たり前のことに至るまでしばらくかかったので、新鮮だった。
すぐにアクセスできないぶん、ゆっくり歩み寄ることになる。
本文に書いてあることの実践を、参考文献から教わったように感じた。

 

p.110
私はゆっくりとすることに思いを寄せる。これは私がいまになってようやく手に入れつつあるものであり、生涯にわたってこれまであまりにも長いあいだ欠けていたものである。

p.116
ゆとりの時間がたっぷりあってぶらぶらする人間のうち、一定数の人たちは、「より高い文化の発展のために必要」だからである。あるいは別の言い方をすれば、「ぶらぶらする人間は最も活動的な人間の一人である」。彼らの活動とは、ものを考えること、夢見ること、思案すること、思い出すこと、つまり、これらはすべて、人を行動に駆り立てる最も重要な力が湧き出る源泉である。これはもちろん作家にだけ当てはまるわけではない。何もしないことと思われているものが行為になるということ、スローダウンが刺激(運動)になるということ、これはまさにパラドックスだ。

 

作家、多和田葉子によるあとがき

p.195
暴力的な情報にふりまわされ、溺れそうになりながら生きるわたしたちは、本の中に何百年も何千年も保存された言葉を一つ一つ手にとって吟味することで、居場所をつくることができる。メディアから流れ出る情報は、爆撃、テロ、殺人の行われた場所と死者の数を次々投げつけてくるだけで、自分が何をしたらいいのかをじっくり考える時間は奪われ、ふりまわされ、疲れるだけの日常からどうやって逃れたらいいのかわからなくなる。
そんな中、過去に書かれた言葉を注意深く読むことで、自分の時間の流れをつくることができる。ゆっくりとした時間、ゆっくりしているけれども過去へ未来へと何千年も跳躍できる力強い「遅さ」である。文字を読むことによってそういう時間が得られるのだ、という当たり前のようで難しいことを、この本はしっかり伝えてくれる。

p.196
数年前、彼女が初めて日本を訪れた時のことである。旅の最後の一週間は忙しく京都や東京でイベントに追われたが、その前に一人名古屋で何もすることのない日々を送ったそうだ。スケジュールぎっしりの旅行しか知らない人なら、退屈しないかと心配したのではないかと思う。京都なら観光する場所が無数にあるが、名古屋である。ところが彼女は全く退屈しなかったそうだ。毎日散歩に出て、お地蔵さんやお稲荷さんに挨拶し、毎日違った洗濯物の干されているのを眺め、わたしたちがもう見つめることを忘れてしまっている何千という事物をくりかえし見つめた。事物と言葉はゆっくりと歩み寄り、出会い、詩が生まれた。せかされない時間の流れの中にしか文学が存在しないのと同時に、文学なしには、ゆっくりと流れる豊かな時間を味わうのは難しいということではないかと思う。

 

この「名古屋である」に笑う。たしかに。
東京から名古屋に越して10年。ゆっくり住むにはいい街だと思う。

 

日曜日の午後。読み終わって夫の部屋に行ったら、彼も読書中だった。PCで何かをつくってるか、ゲームしてるか、ソフトをアップデートしてるか、寝てるかの人なのに、この秋は読書が好きらしい。おのおのゆっくりできて、いい時間だった。