ザ・ディスプレイスト 難民作家18人の自分と家族の物語

Date
10月, 19, 2020

編者:ヴィエト・タン・ウェン
訳者:山田文
出版社:ポプラ社
発行日:2019年2月6日
形態:単行本

The Displaced: Refugee Writers on Refugee Lives
Edited by Viet Thanh Nguyen

2018

 

Norton Introduction of Literatureというアンソロジーを読んでいて、好きになったHai-Dang PhanとViet Thanh Nguyen。
ふたりとも、戦時中のベトナムから亡命した過去をもつ。
もっと読みたくて、Viet Thanh Nguyenの邦訳を探したところ、編者として参加していたこの本を見つけた。

 

難民問題を私はよく知らない。
「デジタル大辞泉」で調べると、こんなふうに出てくる。

 

1 天災・戦禍などによって、やむをえず住んでいる地を離れた人々。
2 人種・宗教・政治的意見の相違などによる迫害を避け、国外に逃れた人々。
◆日本で「帰宅難民」「買い物難民」などのように、さまざまな事情で困った状況にある人々を表すのに使うのは、乱用とされる。

 

恥ずかしながら、乱用のほうが身近に思えるくらい、私は難民問題を知らない。
この本を読んで、一口に「難民問題」と言っても、多様なケースと考え方があることを知った。

 

 

18人の作家の作品から、特に印象に残ったもの:

■ヴィエト・タン・ウェン『はじめに』
よく「文学は役に立たない」「文学部は不要だ」という話を聞く。そういう人はこのイントロダクションを読んでどう思うのだろう。時代の流れによって、差し迫った必要性が減った、使命を終えた領域はあるかもしれないけど、その人には見えていないだけで、物語や作家が必要な領域は他にもあると思った。

p.18
国連によると、難民は新たに永住の地を得ると難民でなくなる。「迫害、戦争、暴力のせいで自分の国から逃れることを余儀なくされた人」という国連の定義では、私が難民だったのはずっと昔のことだ。けれどもわたしは、自分が難民だったときの古い記憶を肌身離さずもっている。難民だったときの感覚を自分の中に育んでいる。

p.17
思い出せることと思い出せないこと、そのすべてにおいてわたしは、シリア人難民や、国連が避難民に分類する6,560万の人たちと人間として固く結びついていると信じる。そのうち4,030万人が国内避難民、すなわち自分の国のなかで移動を余儀なくされた人で、2,250万人が不穏な自国から逃れた難民、280万人が亡命希望者だ。

pp.17-18
避難民はたいてい、逃げ出した土地では求められていなかったし、いまいる難民収容所でもこれから向かう先でも、求められていない。避難民は過酷な条件のもと逃げている。友、家族、家、国を失い、滞在期限も明確に定められず、はっきりとした出口も見えないまま、しばしば非人間的な環境のもと難民収容所にとどめられる。強制送還の恐怖に脅えることも多い。それに、おそらく記憶されることはない。そこで作家の仕事が重要になる。

p.21
問題なのは、声なき者と呼ばれる人たちは、ほんとうは声をもっていないわけではないということだ。声なき者の多くは、実は絶えず語っている。聞こえるところまで近づけば、聞く力があれば、聞こえないものの存在に気づいていれば、声は決して小さくない。問題は世界の大部分がその声を聞きたいと思っていないことにある。あるいは世界に声が聞こえていないことにある。作家や代弁者に頼ることなくすべての声なき者が自分の物語を語ることができ、それに耳が傾けられるチャンスが社会的、経済的、文化的、政治的に確保されている、そんな世界をつくることにこそ、ほんとうの正しさがある。

 

■ジョセフ・アザム『ラスト、ファースト、ミドル』
– アフガニスタン→アメリカ
祖父がつけてくれた、宝物のような名前。亡命先の国になじむために手に入れた名前。自分のどの部分を出して、隠すのか、どうふるまうのかに悩む少年の話。国を無事に出るまでがとても大変なうえに、安全な場所に落ち着いてからも混乱は人の内部で続くのだと知った。

 

■ディビッド・ベズモーズギズ『ありふれた物語』
– ソヴィエト(ラトヴィア)→カナダ
自分が難民だったからといって、すべての難民の側に立つわけではない。難民の間にも差別意識はある。

p.47
私がこんなことを語るのは、両親や親類を気高い存在として描きたいからではない。みんなソ連にいたときはヒーローなどではなかったし、移住を経験してヒーローになったわけでもない。自分たちの生活が落ち着くと、ほかの難民に同情を寄せることは特になかった。それどころか、難民にはシニカルとまでいわずとも疑いのまなざしを向けていた。政治的には保守で、アメリカではほとんどがトランプに投票したはずだ。それはおかしいと私が言うと、世間知らずと一蹴される。矛盾は感じないらしい。ほかの難民たち、とりわけ茶色い肌をしたイスラム教徒は自分たちとは違うというのだ。

 

■ファーティマ・ブットー『肉と砂』
– アフガニスタン→シリア→パキスタン
ミラノで展示された、ヴァーチャル・リアリティ(VR)のインスタレーション作品。難民の旅路、国境地帯の移動を追体験できる。これを実際の難民だった著者が体験する話。東洋の考え方をもつ者の、仮想体験の見方。

pp.58-59
ほかの土地で何年もよそ者として暮らしたあと、祖国でわたしたちを待っていたのは深い悲しみだった。子どもで少女だったわたしはいわれた。絶えずおそってくるこの混乱と暴力の感覚に耐えるには勇気が必要なのだと。けれどもいまこの恐ろしい感覚から距離をとって安全でいられるのは、別の理由からでもある―ぜんぶ現実ではないとわかっているから。
東洋と西洋の文化のちがいは、 ”マーヤー”、幻影にある。
東洋のわたしたちは、生はすべて幻影だと信じている。わたしたちは本来、時間を疑って空間や距離を信じない。わたしたちの感覚はすべて、ひとつの事実に従っている―リアルなものは何もないという事実。生、ルール、秩序、なにも存在しない。夢と現実のあいだに境界線はなくて、ふたつはひとつ。嘘と真実もおなじ。なにもかも心がつくりだした幻影なのだから。

 

■レフ・ゴリンキン『神聖ローマ帝国の女王、マリア・テレジアのゲスト』
– ソヴィエト(ウクライナ)→アメリカ
とても好きな文章。父と美術館に行ったときのこと。人間らしく振舞うこと。ギフトショップで買ったポストカードの重み。

p.89
必要最低限のことしかしてこなかったから、ただほしいからというだけでものを買うのはすてきだと感じた。父のポケットにある四角い小さな包みを感じられる気がして、それがぼくらに重みをくれて、ぼくらにしっかりと形を与えてくれた気がした。

 

■レイナ・グランデ『とどまることのできる親』
– メキシコ→アメリカ
仕事がなくなり、自国に幼い子(筆者)を残して国外に移住した両親。数年後に再会するが、子は自分が捨てられたと思っていたため、両親との間に心理的な壁ができてしまっていた。「他人」になってしまった。子が大人になって、結婚し、自分の家庭を築いたときに気づいたこと。

p.103
わたしは日々、けっして癒えることがないわたしたちの喪失、苦しみ、傷を証言する。しんどいことだけれど、何度だってそうするつもりだ。父からわたしへの、また間接的に孫たちへのいちばんの贈り物、それは父が移住を決断したことで、そのおかげで父がなれなかった親にわたしがなれたのだから。父とはちがって、わたしは自分の子と他人にならなくてすむ。
いまわたしは、親としてここにとどまることができる。

 

■マリーナ・レヴィツカ『難民と流浪者』
– (ウクライナ人として)ドイツの難民キャンプ→イギリス
イギリスにすっかりなじんで生きていた筆者だが、イギリスのEU離脱、アメリカの大統領選で反移民・反難民が唄われるようになって考えを変える。いかに政治的レトリックに難民が利用されるか。

p.163
難民の物語を読んでも、たとえば多くの母子がトルコやリビアの海岸で水漏れしたボートから引っぱり上げられたり、若者の体が命を失って地中海の浜辺に打ちあげられたりする話を読んでも、とても悲しいけれど自分には関係ないと思っていた。

わたしは第二次世界大戦後にドイツの”難民”収容所で生まれた。ただ厳密にいうと、わたしの家族は難民ですらなかった。スターリンのソ連に戻るのを嫌い、西側に逃げ場を求めた強制労働者だった。

p.166
あまりにも完全に溶け込んでいたので、自分がほんとうはイングランド人ではないということまで忘れていた。

p.170
明らかになったのは、イギリスが社会階級と世代でひどく分断されていて、だれにとっても落ち着けない場所になったことだった。わたしはどこに属するのだろう。父と母の記憶のなかにだけあってわたしにの記憶にすらない、混乱したウクライナの田舎町だろうか。わたしが生まれたドイツだろうか。いまは立ち直って豊かになり、戦後数十年間の自己反省によって、「偉大なる国」を目指したとき核心にあった闇と恐怖に向き合った国。それとも、難民だったわたしにとても親切にしてくれたけれども、自分たちの仲間だとはけっして見なしてくれないイギリス人のなかだろうか。

 

■ディナ・ナイェリー『恩知らずの難民』
– イラン→アメリカ
感謝することを強いられる環境と、心からの感謝がこみ上げる瞬間の対比。難民・移民排除の考えをもつ右派だけでなく、難民・移民のおかげですばらしい国になると説く左派にも問題があると提起。成功者の美化は、感謝を強いることにつながりうる。

p.188
実際にはまわりが望むことをわたしたちが察して、目に見えないスイッチを切ってみんなを怒らせないようにしただけだ。そもそもアメリカ人は、わたしたちをテロリストだとかイスラム原理主義者だとか凶暴な犯罪者だとかは考えていなかった。わたしたちがまさにそういった脅威から逃れてきたキリスト教徒の一家だと、はじめからわかっていた。そしてプロテスタントのコミュニティとして、わたしたちを受け入れて救った。けれども受け入れには暗黙の条件があって、それをわたしたちは自分で探りあてなければならなかった。感謝しなければいけなかったのだ。

pp.188-189
コミュニティの人たちは、わたしたちがいま生きているのは自分たちのおかげという態度を隠さない。けれども、私たちの過去はまったくなにも知ろうとしない。毎月、母は教会、女性グループ、学校、それに夕食の場でまで体験談を語るように求められた。会話がぜんぶ止まって、脱出の話をもう一度してほしいと母がせがまれる瞬間をわたしも覚えている。問題はもちろん、みんなわたしたちのありがたい救済の話を聞きたいだけで、それ以上ではなかったこと。イランのわたしたちの家がどんなふうだったとか、中庭でどんな果物を育てていたかとか、どんな本を読んだかとか、どんな音楽が好きだったかとか、いまラジオから流れる曲をひとつも理解できないのはどんな気持ちかとか、そんなことはだれも尋ねなかった。

p.192
長い空の旅のあと、JFKでの「おかえりなさい」が心に及ぼす力のこと。わたしにとっては、このことばが職員の口から出るやいなや自身はどこかに吹き飛んで、感謝の気持ちがほとばしる。息せき切って「ありがとう」と答える。ここがわたしの国だっていってくれてありがとう。また入れてくれてありがとう。

 

■ノヴヨ・ローサ・チュマ『新たな土地、新たな自己』
– ジンバブエ→南アフリカ、アメリカ
平和な時代の記憶をもつ筆者。それとはまったく異なる記憶しかない妹。キャリアを失い、疲弊しきった母。白人と黒人の差別問題はよく聞くけど、黒人が人口のほとんどを占める国の中にも、出身国で差別があることは初めて知った。

p.223
わたしたちジンバブエ人は、「南アフリカ人」のエリアでは異常者とみなされるようだった。南アフリカという空間はアフリカ大陸のあらゆる場所から来た人たちで成り立っていて、「南アフリカ人」という民族と帰属は自明ではないのに。

p.225
白人ではない身体をもつ者の苦しみはあまりにも普通になって、あまりにもたくさんあって、あまりにもありふれているので、特別視されない。