(祝)ぼく自身の歌

ある人の、ある定期イベントの告知をtwitterで見た。
開催場所、日時、イベントの名前、それと内容の説明が少し。

「ふーん」とならなかったのは、

【告知】開催場所 9月17日
(祝)イベントの名前~~
内容の説明~~~~~~~

と表示されていたからだ(よく覚えていないけどこんな感じ。日付は変えた)。
スマホのUIの関係か、「(祝)」の前に改行があり、「定期イベントの開催を自分で祝うのか。やけにめでたい人だな」と思った。

しばらくしてわけがわかった。祝日だ。

誰にも見られていないのに、恥ずかしい。
「見間違える君のほうがおめでたいよ」と努めて言葉を発し、落ち着こうとする。

 

ーーーーー

 

落ち着いた。

何かやるたびに自分で祝うって、すてきじゃない?
たとえそれが、毎日、ルーティーンに関してだとしても。

祝い、祝福で、ホイットマンの詩「ぼく自身の歌」を思い出した。
「自身」のためにうたっているが、個人主義ではない。
他者、国、自然、宇宙と合一していく、拡張していく自己だ。
愛、自由、平等へのたくましい讃歌。

 

ぼくはぼく自身をたたえ、ぼく自身をうたう、
ぼくが身につけるものは、君も身につけるがよい、
ぼくに属するいっさいの原子は同じく君にも属するのだから。

ぼくはぶらつき、魂を招く、
ぼくはのんびりともたれ、ぶらつき、夏草のとんがった葉を見つめる。

ぼくの舌、ぼくの血のあらゆる原子は、この土、この空気からできていて、
この地で親から生をうけ、親もまた、そのまた親も同様に生をうけ、
ぼくはいま37歳、申し分なく健康で、出発する、
死の時まで止むことのないように願いながら。

教義や学派はほうっておき、
そのままでよしとして、ただ記憶にとどめながら、しばらくは引き下がり、
ぼくはとにかくかくまってやる、危険をかえりみず語らせてやる、
本然の活力をもった融通無碍のわが本性に。

 

私が好きなのは、同じ『草の葉』に収められている、「結局、わたしは」だ。

 

結局、わたしは、いまだに子どもみたいなもの、自分の名前の響きが嬉しくて、何度となく繰り返してみるんだから。
他人の気持ちでそれを聴いても ― まったく飽きることがない。

あなたの名前だってそうですよ ―
名前の響きがいつも同じだなんて、思わないでしょうね?

 

自分につけられた音。
呼んで、呼ばれて、響く音楽。
今日も私の音が、あなたの音が、肉体と離れず、同じ宇宙にあることを祝福しよう。

 

 

SONG OF MYSELF.

1

I CELEBRATE myself, and sing myself,
And what I assume you shall assume,
For every atom belonging to me as good belongs to you.

I loafe and invite my soul,
I lean and loafe at my ease observing a spear of summer grass.

My tongue, every atom of my blood, form’d from this soil, this
air,
Born here of parents born here from parents the same, and their
parents the same,
I, now thirty-seven years old in perfect health begin,
Hoping to cease not till death.

Creeds and schools in abeyance,
Retiring back a while sufficed at what they are, but never forgotten,
I harbor for good or bad, I permit to speak at every hazard,
Nature without check with original energy.

 

WHAT AM I AFTER ALL.

WHAT am I after all but a child, pleas’d with the sound of my own
name? repeating it over and over;
I stand apart to hear—it never tires me.

To you your name also;
Did you think there was nothing but two or three pronunciations
in the sound of your name?

 

 

参考文献

亀井俊介・川本晧嗣編『アメリカ名詩選』、岩波書店、1993年。
ウォルト・ホイットマン『おれにはアメリカの歌声が聴こえる―草の葉(抄)』、光文社、2007年。

The Walt Whitman Archive
https://whitmanarchive.org/published/LG/1891/poems/27
https://whitmanarchive.org/published/LG/1891/poems/224

 

 

差分の肉付け、立ち上がる本

あの日、あの時、あの場所で、君に会えなかったら、僕らはいつまでも見知らぬ二人のまま、だったかな。私はどのみち恋に落ちていただろうから、現れるのはもっと早い時間でもよかったよ。

 

寝る前に、ログをつけている。EDiTの、1日1ページのB6ダイアリーに、箇条書きで記していく。その日にやったこと、訪れた場所、食べたもの、買ったもの、体調、良くも悪くも心が動いたこと。淡々とした、気軽なログブック。まれに書かない日もあるが、それは白い日という記録だ。

2018年9月5日、水曜日。いつものように机に向かい、カランダッシュのボールペンをもって書く。初めの黒丸をぐりぐりしている間に、1日のできごとを思い出す。

 

●岸本葉子「エッセイの書き方」を読了。
「エッセイ脳」の改題。
思っていたよりもテクニカル。

●穂村弘のエッセイ。おなかいっぱい。

●筋肉痛がひどい。肩。

●夕食の肉、焼くなら切り身よりもかたまりを。縮んでわびしい。

 

書き終えて読み返すと、なんかおかしい気がした。あ、そうか、と、かぎかっこを二重かぎかっこに改める。

 

●岸本葉子『エッセイの書き方』を読了。
『エッセイ脳』の改題。

 

かぎかっこで本に見えなかったものが、二重かぎかっこで本にしか見えなくなった。いつこのページを開いても、瞬時に本だとわかる。

わかりやすさのための慣習的なルールがあり、習ったのだから、わかりやすいと感じられて当然だ。当然なのだが、一度忘れるまで、肉付けを経てみるまで、私は実感として知らなかった。差分の肉付けで、かっこをふくよかにするだけで、文字の羅列を本だと、わかりやすく認識できるようになる。記号、すごい。おもしろい。

おかげですっかり目が覚めてしまった。そして入りこんでいく、かぎかっこ、クォーテーションマークの世界……。さすが英語のWikipedia、読みごたえたっぷり……。積ん読ならぬ、積んタブが増えていく……。いつ寝るんだ?

 

 

レモンゼリー・カミングス

詩人のカミングスごっこと、「すくう」の話。

 

すくう:手のひらやさじなど、くぼんだ形のものを使って、液状・粉末状のものの表面に近い部分を、えぐるようにして取り出す。また、手のひらやさじなどで、液体の表面に浮いているものやその中にあるものを、下から受けるようにして取り出す。

 

レモン汁に水と砂糖を加えて温める。
ふりかけたゼラチンが溶けて粗熱が取れるまで、待つ。
カップに注ぎ、気泡をすくい、冷やす。

ゼリーをすくう。
表面がスプーンに抵抗する。
力少々を加えて突き刺す。
えぐりとる。

昨日は液体だったもの。
弾力に触れて気づく、「すくう」が内包する痛み。
水、蜂蜜、アイスクリーム、すくうとき、元の場所からの断絶がある。

 

 

「掬う(すくう)」と「救う」は同じ語源をもつらしい。

命を救うとき、たとえば手術室、医者はメスで患者の体を切り開く。
たとえば川、溺れる子の手を大人がつかみ、指が食い込むくらいの強い力で引き戻す。

地球や世界や人の心に「救う」があてられるとき。
救う人が救われる人を助け、存在を丸ごと包みこみ、傷つけないように抱きしめるようなイメージをもっていた。
これ、違うかもしれないな。
温和に見えて、平和に見えて、実は見えない刃物が存在をえぐる瞬間がある。
そのうえそれで救われるものは、ひとすくい、表面や部分に過ぎない。すべてじゃない。

 

 

共感を通り過ぎた先で

共感されないことを、よりどころにしている。

 

繰り返してきたパターン。ありものを口に入れ、咀嚼し、飲みこみ、出てくる感情を注視する。食わず嫌いだったのを反省するくらい嬉しいとか、言葉にできないけど変な感じとか、ひどいアレルギーのような憤りとか。出てきた感情をエネルギーにして、ありものを変えたり、新しくつくったりする。

大勢の人が話す、ありものの言葉。求めていたものと、偶然ぴったりと合うことがある。手っ取り早く飛びついて、信じ、無意識にだまされることもある。いずれにしても、使う人たちは同じ言葉を共有し、共感しあう。そこは心地いいし、安心できるし、自信ももてる。

私も初めはとりあえず、大勢の人が話す、ありものの言葉を使う。使って、違和感をおぼえて、横を通り過ぎることになる。何度も繰り返していれば、使う前から「たぶん違和感を抱くだろう」と先を読めるようになる。それでも一度は体に入れて確かめるのは、通り過ぎた先にあるものが欲しいからだ。

 

上司とうまくいかず会社を辞めようと思ったときも、まずはよく聞く言葉を体に入れた。「やりがいがない」「ロールモデルがいない」「先が見えている」「もっと好きなことをやりたい」「成長したい」「モチベーションが上がらない」とか。しっくりさせようとしてもしなくて、頭の中で論破が進んだ。

・やりがいがない、先が見えてつまらないなら、自分で新しくつくればいい。
・人事の仕事は「昔からやりたかったこと」ではないが(就活するまで知らなかった)、言葉を使って研修をつくる、という意味では、やりたかったことのど真ん中である。興味の対象が「言葉」なので、幸か不幸か、何をしても昔からやりたかったことになる。
・ロールモデルがいないなら、自分がなればいい。
・成長は、何をもって成長か。毎日必死に生きていて、前よりはいい状態だ。というか、若者が典型的に陥るこの状況を、他と違う形で脱するのも成長の手段だ。
・優秀な人ほど、モチベーションの上がり下がりに影響されず、毎日淡々と仕事を仕上げていく。モチベーション論はナンセンス。
・「今の若い世代は、前の世代と違って安定を求めず、挑戦を好む」という言い回しもよく聞くが、仮想敵をつくって仲間意識を高め、自己肯定したいだけだ。これを繰り返しているという意味で、他の世代論と変わらない。
・安定した場所には、保守性もあるが、蓄えてきた設備、技術、知財、人材、キャッシュ、社会的信用もある。使いようだ。挑戦に利用するために、安定した場所を選んだ人は多くいる。

すべて辞める理由にならない。

 

そうして私は、一度体に入れた「辞める理由」「働く理由」を出し、通り過ぎた。逃げようとしていただけだと気づいた。若者をむやみに煽る人たちにいらだった。「共感されないような、自分の切実な理由にいたることができたら、それを信じて辞めることにしよう。どこかで聞いたストーリーや、多くの人に共感されるものは、おそらく “私にとって” 嘘だ。それまではできることをやりつくそう」と決めた。入社理由を思い出し、言葉を更新した。

 

・2009年面接時: 「ひとりでやっていたものづくりを、人と一緒にやりたい」
・2011年: 「自分のものづくりの方法、つまり言葉や意味やイメージを手がかりにものをつくることが、社会で通用するのか、人と協働することができるのか、何が喜ばれ、何が喜ばれないのか、始まりから終わりまでに何が起こり、私が何を感じるのかを仮説検証したい」

 

6年経ってこの仮説検証が終了し、次の目標ができ、次に行くことにした。社会学のフィールドワークのように、ある場所を調査して、終わったから次、というのが、「私の」「20代の」働き方と辞め方だった。

 

大勢の人が話す、ありものの言葉、ストーリー。求めていたものと、偶然ぴったりと合うことがある。手っ取り早く飛びついて、信じ、無意識にだまされることもある。そこを通過して、手にできる言葉もある。共感されること同様に、共感されないことも心のよりどころになるのだ。

 

 

生活模様

風呂の壁の写真をアイキャッチに撮ってから、生活の中の模様に夢中。

日光が透けるカーテン、リバティ柄の布、スエードのソファ、角を合わせてたたんだブランケット、友人が持ってた刺し子、着古した甚平、タイルでつくったコースター。

りんごの皮、小松菜の葉脈、上からのぞいたパックの貝割れ大根、グリルの網、撒き散らした打ち粉、トレイごと冷凍したひき肉、溶きほぐした卵、冷蔵庫の卵入れ、マヨネーズのふたのギザギザ、ミルの中のホールブラックペッパー、角型ホットプレートに広げたニラ焼きそば。

おろしたてのスポンジ。勢いよく握って飛び出た、細かいシャボン玉。

サンダルの底、エスカレーターの足元、おむすびの陳列、切ってない角形食パンの陳列、かき揚げの陳列、敷き詰められたキムチや白和え、大きなチーズの表面。地下街の床、店のシャッター。

見えない作り手、使い手、暮し手の指紋。

親指と人差し指のファインダーを満たして、ぱちっと1枚撮るんだ。