(私にとっての)保存版:ブログのレシピ 10 Steps

「書く」にテコ入れするなら、現状把握から。私のブログの書き方(2018 ver.)を、私のためにまとめたポスト。

 

1 初めにひとつ、決める
小論文の参考書に載っている、「まず結論から書く」や「1パラグラフに1メッセージ」のようなことに似ているが、少し違う。仕事でもの作りする時に、色々な役割の人が集まる会議で提示されるような、「このプロジェクトで実現したいこと」を決める。視点や取り組み方は数あれど、目的はひとつ、どの段階でも意識するように。できあがるまでの指針、立ち戻る場所。「~~~だと主張したい」というのは、そのひとつの形に過ぎない。硬めの文章の中で、「結論を一文で表し、最初と最後に配置し、真ん中に理由を入れる」こともあるが、サンドイッチばかりつくるのはつまらない。

目指したものの例:
・まちの教室KLASSの読書会:いわゆるレポートの型の探索
・My Life with Words:履歴書フォーマットからの脱却
・クラフツマンシップ:初めての本格的な翻訳
・あまちゃん:水を想起する言葉のループ詩
・風呂の蛇:動と静、蛇口から出てきた興奮の再現
・スタートレック:コテコテのウェブライティングの型作り
・黄昏カフェ(ワードクラウド):議事録やレポートではない記録の型提案

 

2 自分に書く
言葉が意味をもって人に伝わる仕組みが不思議で、どうやったら「言葉にできる」んだろうと考えているばかりなので、その上「人にも伝えられて、共感される」を兼ね備えられるなんて奇跡だと思っている。だから「One of 読み手」に自分を置いて、そこに向けて書く。自分の拡張からしか書けない。どうがんばっても他者にはなれない。現場に行って見聞きしたり、勉強したりして、拡張させた自分にペルソナのお面をかぶせ、なりきることしかできない(マーケティング理論やリサーチのやり方で他者を想定することはできないけど、自分なりの分化、メタモルフォーゼのやり方があるのは気に入っている)。

 

3 道具を選ぶ
ノートは書くためのもの。パソコンは出来上がり間近なものを打ち込み、整えるもの。言葉で何かを作る時の8~9割を、オフライン、アナログでやる。書くことは頭だけじゃなく、全身を使いたいものなので、道具も自分の体の一部のように使いたい。着ていてかわいいとか、うっとりいい女気分に浸れるとかはどうでもいいが、チクチクかゆいのはとても気になる。メーカーの工場の生産ラインには、日々の生産を進める人の他に、生産ライン自体をメンテナンスしたり、改善したりする人がいるのだが、そんな人になったつもりで自分のくせや好み、違和感を覚える瞬間に注意し、よく観察し、策を講じる。3秒の時間短縮、0.5円のコスト削減のような塵とて、積もれば山になる。「自分と道具の一体化」を目指して、小さなひっかかりをひとつずつつぶしていくと、書く時のスイッチの切り替え、没入感が全然違う。

ノートはマルマンのニーモシネ。のびのび考えて広げたいのでA4サイズ。罫線は窮屈なので方眼。紙の色はクリームよりも白。リングノートのリングを左にして、縦方向で使う。シャープペンは2B、0.5。カヴェコのペンシルスペシャル、本当に手になじむ。ほどよい重さ、太さ、かつ鉛筆のような形。筆記具を手に、部屋の壁を背にして体育座り、周りに参考資料を置いておき、体、特に足が冷えないようにしておくことが、書く前のお決まりルーティーン。書きたい気分だろうがなかろうが、すぐに没入できる。

パソコンはMac、Windows、どちらも長年使った上でWindows派。Macはパソコンと手首の接触部分が痛くなりがち。日本語の予測変換には、カスタマイズしても使いにくさが残る。書くためのアプリは「メモ帳」がベスト。キーボードは浅すぎず深すぎず、押した感覚がしっかり残るものが好き。タブレットや薄型が主流の時代、いつか離れる日が来るのが心底嫌なくらい、レノボのX260を愛している。ThinkPadのキーボードは本当にすばらしい。

 

4 書き出して、そのままにしておく
とにかく、頭から出す。文章じゃなくてもいい。単語だけとか、絵とか、本題とは違うけど思いついたこととか。最初からデジタルだと、書き出す・書き広げるのがリニア(線状)になるし、Deleteキーを押しがちになる。書いたものをDeleteキーで消してしまうのと、書いたものの上に線を引いて消すのでは、同じ「消す」でも意味が違う。消した跡を残すのは、私が頭の中の言葉を出し切るには必要なこと。出し切ると、頭は自然と次に行く。消した跡も含めて、ごちゃごちゃした文字の集合から、連想や新しいアイデアが生まれやすい。

 

5 書き出して、ボツにする
次の種類のものは、出し切ってからバツ印をつける。

・すでに頭の中でできあがっているもの
「書きたくてしょうがないもの」だが、書くことによる伸びしろがないものは、おもしろくない。「文章になるかどうかわからないけど、強く惹かれた出来事や言葉があり、連想やら何やらで遠くまで行き、結果思いもよらないものが出てきた」が好き。

・妙に説明的なもの
「すでに頭の中でできあがっているもの」に似ているが、加えて、書き出した時に言葉が硬いことが多い。硬めの文章が、意図せず勢いよく出てくる時は、頭のどこかに「私は悪くない」「あの時悲しかった」など、怒りや悲しさ、悔しさがある。無意識に、誰かに説明して、わかってもらいたくなっているよう。文章を書くことのメリットとして、「言語化することで自分と向き合える。癒される」があるらしいが、私はこういう類のことを書きあげるのが疲れるし、あとから読みたくもならないので(=正確には、疲れるし読みたくもならないことに気がつくようになったので)、ブログに発展させる必要を感じない。「長文を書いているうちに気づく」しかないので書き出しはするが、説明的だと気づいた時点でお役目終了である。

 

6 言葉をなぞる
コンピュータで数字から変換される文字と違って、アナログは書かなきゃいけない。頭を拡散モードにして文字を書いていると、言葉のひとつひとつをなぞれる。「さんずいだ」とか「さっきから漢字ばっかりだな」「類語はなんだっけ」など、意味はもちろん、音や字面やイメージを触りながら進むことができる。辞書で調べたことは一緒にメモする。速くないし、疲れるけど、楽しい。「書くことがない」と止まることがない。

 

7 「書き出す」と「赤入れ」は別々に
出てきたものを否定せずに書き続けていると、じきに構造が浮かび上がってくるので、ページを新しくして整理整頓をする。「書き出す」は一気に集中的におこない、「整理整頓」とは段階を分ける。無邪気で、まっすぐで、ぐんぐん進み、時に論理を無視して飛躍する子どもは、カッチリスーツに眼鏡を光らせ、感情を挟まず冷ややかに仕事を片づける大人、分析家・批評家を怖がる。萎縮してしまうので、登場シーンは分けなければいけない。先に拡散、あとで収束。どちらも大切。

 

8 デジタルは1割
パソコンは、すでに決まりかけている構造やまとまりを打ち込み、整えるために使う。私にとってデジタル化は、固めるためのもの。もともとリニア(線状)の構造をもつ文章が、数字やフォントのおかげでよりリニアの色を濃くして固められる。均一で、流れるように読めるようになり、音や字面にも注意を向けやすくなる。デジタル空間に打ち込む、整える作業も(レノボのおかげで)好きだが、全体の1割で、アナログの9割があってこそ。

 

9 音読する
声に出して読む。つっかえたり、音の重複があったり、どこか気になる時は、考えて、他のものに交換することがある。簡潔で、読み上げやすく、綺麗なものならオールオッケーなわけではなく、あくまでも目的に合うかどうか。あえて汚い音にしたり、強弱をつけたり、スピードをつけたりすることもある。話し言葉を部分的に入れるのは、リズムをつけるため。

 

10 眺める
余白、ひらがな、カタカナ、漢字のバランスを考える。こちらも目的に合わせて、漢字を多めにすることも、ひらがなだらけにすることもある。表記の揺れは気づく範囲で修正する。投稿ボタンを押した後、レスポンシブチェッカーで確認して完了。

 

 

夜は短し歩けよ小娘

初めての万年筆は、プレゼントでもらったパイロットのソネットだ。大学に入って、シェイクスピアのソネットを読み始めたころ。インクはブルーブラックのカートリッジ。スクリュー式ではない、ただカチッとはめるタイプのキャップは、機動性に優れる。万年筆を使ったことがない贈り主と、使ったことがない私と、万年筆を、デパートの店員さんがちょうどいい具合に結びつけてくれた。もしあの時のインクがブラックだったら綺麗と思わなかったし、中が吸引式だったら、キャップがスクリュー式だったら、面倒に感じて使い続けなかった。

3年が経ち、東京を出るころ、他の万年筆も使ってみたくなった。他の色のインクにも興味があるし、吸引式も試してみたい。ということで、大井町のフルハルターに行った(2018年2月、我孫子にご移転)。

フルハルターは、長年モンブラン社で働いていたペン先調整の職人、森山さんのお店。お客さんの書く角度に合わせて研いだペン先の万年筆を販売している。万年筆好きなら一度は名前を聞いたことがある、とも言われるくらい、有名なところだ。

出入りしていた学会で知り合った文房具好きの人が、「フルハルター、 『えむせん』がいいよ」と言っていた。住所が私の家の近く。「ほ!ちょうどいい!えむせん!」、ひょいと予約して出かけた。

今思えば、「えむせん」が何なのか調べておくべきだったし、フルハルターへ行く前に丸善や伊東屋へ行っておくべきだったと思う。自分で万年筆を買ったことのない小娘が最初に行くには、ステップを飛ばしすぎていた。マサラタウンを出たサトシが、レベル15くらいのゼニガメと、森でつかまえたピカチュウとコクーンを連れて、ジムマスター、いや四天王に、「ちわーっす、よろしくおねがいしまーっす☆」と戦いを挑みに行くようなものである。ちょろっと歩いてきた経験と、ものおじのなさ、元気しかない。

ビルの1階の狭いスペースに、机と椅子があった。森山さんが、品物を受け取りにきたお客さんと歓談していた。入れないので外で待つ。予想に反し、文房具屋さんのような佇まいではなく、冷や汗が出始める。漏れ聞こえる「この前の〇〇は~~で」とか「++のインクと&&の組み合わせが粋で」などの万年筆談義、意味がわからない。

順番が来て、どんなものをと聞かれて、「えむせんを…」と答えるときには元気がなくなりかけていた。出てきた「えむせん」、ペリカン社スーベレーンのM1000。長さ約18cm、重さ約35g。小3で成長が止まった私の小さな手には習字の筆のようにバカでかく、もうほんとにお前何しにきたという気持ちでいっぱいだった。

気を取り直して選ぶ。フルハルターで主に取り扱われているスーベレーンには、サイズが300、400、600、800、1000とあり、数字が大きくなるのに合わせて万年筆の大きさも上がる。1000は大きくてだめ、300は日常使いには小さすぎる。400、600、800、どれにしよう。

「えむせん」を出してきたところからずっと、森山さんには見つめられ続けている。待たれている空気に耐えられなくなって、「えっと、これ、ですかね?」と聞いた。鋭い表情を変えないまま、すぐに「ご自分で選んでください」と返された。

えらいところに来てしまったと反省しながら、時間をかけて400を選んだ。ポケモンの「きみにきめた!」のようなまっすぐさはなく、これよりはこっち、こっちよりはあっち、の消去法の結果に過ぎない。すると森山さんが口角を上げて、「ええ、私もそれがいちばん合っていると思います」とおっしゃった。

次は、ペン先を太いBから細いEFに研ぎ出してもらうための、筆記角度の確認(一般的なお店では、この研ぎ出しをやっていない。BならB、EFならEFのペン先を買う)。私は万年筆を鉛筆のように持つのが好きだし(寝かせて持つのが好きじゃない)、鉛筆の持ち方も正しくない。正しい持ち方の話をされるものだと思っていたけど違った。「あなたは立ててお書きになるから、それに合わせます」とだけ。残りの時間、次のお客さんが来るまで、万年筆のお話をうかがった。

 

数週間経ち、小包で届いた。自ら調合したというグリーンのインクで書かれたメッセージカードが入っていた。

インクを吸引させて使ってみたら、ソネットとの違いに驚く。するする書ける! ソネットは3年経っても書き味がカリカリなままなのに。楽しい!

厳しく突き放したり、手に合わせて研いでくれたり、深み・おもしろみを教えてくれたりと、とことんやさしいお店、人だと思った。

 

フルハルターに行かなかったら、ソネットのカリカリが当たり前だと思っていたし、服のような「自分に合う合わない」が万年筆にあると知らずにいたし、自分のくせをくせのまま肯定することもなかった。手にとるたびに、なめらかな書き味によろこびながら、濃密な体験を思い出して自問する。

自分で決めているか?
自分を肯定しているか?
楽しんでいるか?

 

 

共感を通り過ぎた先で

共感されないことを、よりどころにしている。

 

繰り返してきたパターン。ありものを口に入れ、咀嚼し、飲みこみ、出てくる感情を注視する。食わず嫌いだったのを反省するくらい嬉しいとか、言葉にできないけど変な感じとか、ひどいアレルギーのような憤りとか。出てきた感情をエネルギーにして、ありものを変えたり、新しくつくったりする。

大勢の人が話す、ありものの言葉。求めていたものと、偶然ぴったりと合うことがある。手っ取り早く飛びついて、信じ、無意識にだまされることもある。いずれにしても、使う人たちは同じ言葉を共有し、共感しあう。そこは心地いいし、安心できるし、自信ももてる。

私も初めはとりあえず、大勢の人が話す、ありものの言葉を使う。使って、違和感をおぼえて、横を通り過ぎることになる。何度も繰り返していれば、使う前から「たぶん違和感を抱くだろう」と先を読めるようになる。それでも一度は体に入れて確かめるのは、通り過ぎた先にあるものが欲しいからだ。

 

上司とうまくいかず会社を辞めようと思ったときも、まずはよく聞く言葉を体に入れた。「やりがいがない」「ロールモデルがいない」「先が見えている」「もっと好きなことをやりたい」「成長したい」「モチベーションが上がらない」とか。しっくりさせようとしてもしなくて、頭の中で論破が進んだ。

・やりがいがない、先が見えてつまらないなら、自分で新しくつくればいい。
・人事の仕事は「昔からやりたかったこと」ではないが(就活するまで知らなかった)、言葉を使って研修をつくる、という意味では、やりたかったことのど真ん中である。興味の対象が「言葉」なので、幸か不幸か、何をしても昔からやりたかったことになる。
・ロールモデルがいないなら、自分がなればいい。
・成長は、何をもって成長か。毎日必死に生きていて、前よりはいい状態だ。というか、若者が典型的に陥るこの状況を、他と違う形で脱するのも成長の手段だ。
・優秀な人ほど、モチベーションの上がり下がりに影響されず、毎日淡々と仕事を仕上げていく。モチベーション論はナンセンス。
・「今の若い世代は、前の世代と違って安定を求めず、挑戦を好む」という言い回しもよく聞くが、仮想敵をつくって仲間意識を高め、自己肯定したいだけだ。これを繰り返しているという意味で、他の世代論と変わらない。
・安定した場所には、保守性もあるが、蓄えてきた設備、技術、知財、人材、キャッシュ、社会的信用もある。使いようだ。挑戦に利用するために、安定した場所を選んだ人は多くいる。

すべて辞める理由にならない。

 

そうして私は、一度体に入れた「辞める理由」「働く理由」を出し、通り過ぎた。逃げようとしていただけだと気づいた。若者をむやみに煽る人たちにいらだった。「共感されないような、自分の切実な理由にいたることができたら、それを信じて辞めることにしよう。どこかで聞いたストーリーや、多くの人に共感されるものは、おそらく “私にとって” 嘘だ。それまではできることをやりつくそう」と決めた。入社理由を思い出し、言葉を更新した。

 

・2009年面接時: 「ひとりでやっていたものづくりを、人と一緒にやりたい」
・2011年: 「自分のものづくりの方法、つまり言葉や意味やイメージを手がかりにものをつくることが、社会で通用するのか、人と協働することができるのか、何が喜ばれ、何が喜ばれないのか、始まりから終わりまでに何が起こり、私が何を感じるのかを仮説検証したい」

 

6年経ってこの仮説検証が終了し、次の目標ができ、次に行くことにした。社会学のフィールドワークのように、ある場所を調査して、終わったから次、というのが、「私の」「20代の」働き方と辞め方だった。

 

大勢の人が話す、ありものの言葉、ストーリー。求めていたものと、偶然ぴったりと合うことがある。手っ取り早く飛びついて、信じ、無意識にだまされることもある。そこを通過して、手にできる言葉もある。共感されること同様に、共感されないことも心のよりどころになるのだ。

 

 

まちの教室KLASS「積読本をひらく読書会」で考えたこと

言葉は意図して使えば自分を動かす力になるけど、油断するとがんじがらめの原因にもなる。「積読」という言葉を、ほっけの干物並みにほろほろほぐした読書会の話。

 

冷蔵庫に食べものが入っている。買った理由はさまざまだ。体によいと聞いたから。食わず嫌いを克服しようと決めたから。新作が出ると試すから。慣れ親しんだ味だから。旬だから。安くてお得に見えたから。がんばったごほうびにしようとか、好きだけどやめなくちゃ、これで最後にしようとか。

食べものは、じきに食べられる。あとまわしになったものは、消費期限や腐敗を目印に捨てられる。いずれにせよ、入ってきたものは出ていく。

本棚には本がある。こちらも買った理由はさまざまだ。不運にも冷蔵庫の食べものと違うのは、読まずにいた本がなくならず、増えていくことだ。多くの人にとって、「読んでいないこと自体」の後ろめたさが、部屋と頭に影を落とす。腐らないから、本は週末にでもまた増える。後ろめたさも膨らむ。

幸運にも冷蔵庫の食べものと違うのは、増え続けるからこそ、「買った理由」と「読まない理由」がそれぞれの本に残り、時間をかけて発酵し、物語に変わりうることだ。「買った理由」「読まない理由」は、自分や他者の世界にふれようとする手段になる。そう教えてくれる場所があった。

 

本を読んで来ない読書会

3月下旬、桜満開の陽気、東京 千駄木、まちの教室KLASS。設計事務所HAGI STUDIOが「地元の人を先生に」とつくったイベントスペースで、「積読本をひらく読書会」が開催された。読書会といっても、本を読んで来なくていいし(むしろ読んで来ちゃだめ)、集まった人たちで読み始めるわけでもない。やや奇妙にも聞こえるが、「読んでない本について、読んでない人たちと話す」場である。

参加者は3名。「積読びらき」の手順は次のとおり:

1 自己紹介。名前、住んでいるところ、「今朝、何を見ながらこの場所へ来たか」
2 持ってきた「自分の積読本」を隣の人に渡す。もう一方の隣の人から本を受けとる。
3 手にした「隣の人の積読本」を触る、眺める、観察する、読む、メモする。
4   「自分の積読本」について、「買った理由」と「読んでない理由」を話す。
5 隣の人が、その本を観察した結果や感じたことを話す。
6 場の流れで自由に話したあと、2から5のくりかえし。

私が話の場に出したのは2冊。買ったのも、読まないでいたのも、持っていこうと選んだのも私なので、すぐに話せると思っていたが、意外にその場で思い出すこと、他の人たちの話で気づくことがあって驚いた。

 

リルケ『マルテの日記』

買った理由

「観察」を深めたいと思っていた時に、本屋で見つけた。リルケは知っていたので、手にしてぱらぱらとめくったら、「僕はぽつぽつ見ることから学んでゆくつもりだ。僕はほんとうの最初の一歩を踏み出すのだ。どうもまだうまくはゆかぬ。しかし、できるだけ、極度に時間を利用して、やってみたいと考えている」という文があり、読みたいと思った。

読んでない理由

観察の前段階の勉強を優先しているため。タイミングが来れば絶対に読むので、手元にあれば大丈夫という気持ち。

隣の人の話

「国、時代的に、”遠くの存在”の作家だ」と言っていた。「そういえば最近読んでなかったジャンル」とも。

 

増田幸弘+集『不自由な自由 自由な不自由 チェコとスロヴァキアのグラフィック・デザイン』

買った理由

デザイン会社で、コンセプトの言語化や関係者への共有がなくても見た目のいいロゴやパンフレットが生まれるのを見た頃。「デザインの見た目は手段。思想や問題解決への姿勢が根底にあるべきでは?」と考えていた時に、ちょうど本屋のデザインの棚で、帯に共感したため。

読んでない理由

同じ考えの人がいるのだ、という心強さがすでにある。出会った時点で半分以上の目的を達成している気がしている。読むのをあせってはいない。

隣の人の話

「表紙と裏表紙に仕掛けがある」「帯のメッセージ、私も気になる」「読んでみたい」

 

3冊目は帰り際に紹介だけ。この理由で買って、この理由で読んでない女(30歳)というのもなかなかレアなんじゃないかと思って。

ウォルフガング・ロッツ『スパイのためのハンドブック』

買った理由

スパイに憧れたため。特に観察眼。

読んでない理由

スパイ適正診断のページで、スパイに向いてないという結果に真面目に落ち込んだため。

 

他のふたりの時間でも、「知人に薦められたが、難しくて読めなかった」という「あるある」の話から、「もったいなくて読めない。読むのはごほうび。いつにしようかな」という「ごほうびチョコ」みたいな話まで、買った理由、読まないでいる理由が本の数だけあった。ある人が苦手に感じるジャンルを、他の人が好きだったり、スリップが「購入後に読まないでいた証拠」に思えて笑い合ったり、別々に持ち寄った本なのに、テーマが響きあっていたりした。「読んでない」から始まる読書会は、興味深くて、愉快だった。

 

積読、読み終わらなくてもいいじゃん

帰り道、ウェブライティングで使っていたツールで、「積読」「積ん読」のSEOキーワードを調べた。共起する単語は、解消、アプリ、管理、消化、本棚、心理、増える、減らす、捨てる、断捨離、ストレス、すすめ、病気、メリット……など。いい文脈ではないのだろう、多くの人が管理や処分に困っているんだろう、現実を打破したくて買った本なのに、読めずに蓄積していくことがストレスになるんだろう、と想像していると、あれ?私にはこんな罪悪感がないぞ?と気がついた。

「読みたい。でもいろいろあって読めない。読めていない本だらけでストレスだ」よりは、「読みたい。読むぞ!読んでない本がこんなにたくさんある!」と、買った時の温度を維持できている。なぜ?と考えてさらに気がついた。そういえば、私は本を読み終わることがあまりない。

読んでない本は、読んでないこと自体でもちろん積読本だ。でも、私の読書は、一度読んだところで積読リストを出ない。難しい本は、はなから一度で理解できると思っていない。楽しい本は、だいたい二度三度、それ以上おいしい。「できるようになること」が目的の本は、身につくまでがゴール。一度目を通しても、筋トレのフォームは正しいかな、このレシピはまだ覚えてないとか、あれこれ課題が出てくる。自分の血肉になるまでは、「わかった」と言えない。くりかえしやってみて、そろそろ覚えた、「わかった」と言う頃には、存命の著者ならもう「次」に行っている。その「次」を読みながら、「わかった」と思った本を読み返すと、世界観や細部に新たに気づくことがあって、「まだまだだ」と感じ、「わかった」を飲みこむ。

私はたぶん、いつまでも「わかった」と言えない本、読み終わらない本に魅了されるのだ。だから、一読うんぬんが問題でない。くりかえし読むには堪えない、「読み終わった」と言える本、どうしても「わかった」と言えてしまう本を手にすることもあるが、「今の私にとってのはずれが、いつかの誰かにとってのあたりかも」と思えばなんだか楽しい。

読むことは手段だ。願いをかなえる手段はあまたあるのだから、本を読まないといって、非難されるべきではない。本を読まなくても、別の方法で、世界を読んで、考えて、生きていける。

読むことが自分の手段なら、積読本の山を眺めて途方に暮れるのではなくて、身近な一冊から楽しく登り始めればいい。あまりに気がうせる山なら、かの「手にとって、ときめくか」という魔法の呪文で、読む本を決めればいい。「積読」という言葉をほぐしてくれる、「積読本をひらく読書会」もおすすめだ。

 

主催者 舟之川聖子さんのウェブサイト ひととび http://hitotobi.strikingly.com/

まちの教室 KLASS http://klass.hagiso.jp/