<子ども>のための哲学

Date
3月, 22, 2018

著者:永井均
出版社:講談社
発行日:1996年5月20日
形態:新書

 

読みたいなと思っていたら、塾の小5の国語のテキストに出てきた。
いつもするする読解する生徒が「わからない」と言った。

「子どもは、たしかに、自分が知らないということを知っている。ただ、子どもはソクラテスとちがって、たいていの場合、大人たちもほんとうはわかっていないのに、わかっていないということがわからなくなってしまっているだけだ、ということを知らない。そして、「大人になれば自然にわかる」とかなんとか教えられ、そう信じ込まされて、わかっていないということがわからない大人へと成長していくのだ」(p.15)

生徒が「読めない」という心情を吐露したのか、文中の「わからない」を口にしただけなのか、彼も私もわからんかったので一緒にゆっくり読んだ、ソクラテスの無知の知についての説明。
ぼんやりとつかめたかなというところで、「こういう経験、ない?」と訊いた、「親に尋ねてみたんだけど、答えをもらえなかったこと。たとえば、親はどうして偉いの、とか」
しばしの沈黙のあとで、彼は「あるよ」と言った。
「似たようなことだけど、訊こうとして結局訊かなかったこと。どうせ答えられないんだろうな、って思ってやめた」
大学に入ると解答のない問題ばかり、とどこかで聞いたことがあるけど、そんなこと、ほんとうはもっと以前に子どもは気づいているんじゃないかな。

そのあとの英語の授業で再帰代名詞を扱っていたら、「selfってなんだ」と、勝手に教えにくさを感じた。テキスト通りこそ難しい。

「もし自分のなかに哲学することへの欲求というか、内的必然性というか、要するに問題があるのならば、たとえ他人が理解してくれなくても、まったくひとりであっても、ずーっと考え続けてみることができるし、そうしてみるべきなんじゃないか、ということに尽きる」(p.63)

「言葉のやりとりによって通じ合うわれわれの世界を、ウィトゲンシュタインにならって「言語ゲーム」と呼ぶなら、「言語ゲーム」とは (中略) 読み換えが無限になされる場所のことなのである。そのことによって、世界の独在的本質が消えてなくなるわけではない。しかし、それは世界の中にはけっして現れず、それについて人と語り合うことはけっしてできないのだ」(p.98)

「自己や主体が重要な問題であることに、もともと「背景」なんかありはしない。「現代思想の動向」なんか糞くらえ!だ。哲学というのは、ぜんぜんそんなものじゃないのだ。「主体の形而上学」やら「ヘーゲル的自己」やらが「解体」できるかできないかなんて、大仰で空疎な問題が、哲学の問題じゃないんだ。そうではなく、<子ども>の驚きをもって世界に接したひとがーーだからほんとうはすべてのひとがーーそのとき感じたもっとも素朴な問いこそが、哲学の問いなのだ。そこから哲学をはじめることができるし、ほんとうをいえば、そこからしかはじめることはできないのだ」(p.108)