生活模様

風呂の壁の写真をアイキャッチに撮ってから、生活の中の模様に夢中。

日光が透けるカーテン、リバティ柄の布、スエードのソファ、角を合わせてたたんだブランケット、友人が持ってた刺し子、着古した甚平、タイルでつくったコースター。

りんごの皮、小松菜の葉脈、上からのぞいたパックの貝割れ大根、グリルの網、撒き散らした打ち粉、トレイごと冷凍したひき肉、溶きほぐした卵、冷蔵庫の卵入れ、マヨネーズのふたのギザギザ、ミルの中のホールブラックペッパー、角型ホットプレートに広げたニラ焼きそば。

おろしたてのスポンジ。勢いよく握って飛び出た、細かいシャボン玉。

サンダルの底、エスカレーターの足元、おむすびの陳列、切ってない角形食パンの陳列、かき揚げの陳列、敷き詰められたキムチや白和え、大きなチーズの表面。地下街の床、店のシャッター。

見えない作り手、使い手、暮し手の指紋。

親指と人差し指のファインダーを満たして、ぱちっと1枚撮るんだ。

 

 

創造力をいかに定義し、自己開発するか―『納得の構造』 読んで考えたことのまとめ

『納得の構造―日米初等教育に見る思考表現のスタイル』を読んで、これまでの人生で考えてきたことと、次の目標についてまとめた。

本の内容のまとめはこちら。

創造力はいかに定義され、教育されるか―『納得の構造』 読んだ内容のまとめ

 

『納得の構造―日米初等教育に見る思考表現のスタイル』に、日本の初等教育では、とりわけ「共感」が重視されると書かれていた。

日本の歴史教育、作文教育では、いずれも「共感」が「手段」である。歴史の授業では、知識を理解し記憶するために、共感を利用する。アメリカのように、歴史教材を使って分析力をつける教育もうらやましいと思うが、日本式の、時系列・出来事・人物を物語のようになぞり、記憶していくのも悪くない。過去の出来事である以上、一定の答えが存在するからだ。児童に記憶させるために、おもしろい、記憶に残るような授業や方策の工夫がされている。

もやもやしたのは作文の授業だ。共感を手段にして、共感的な人格をつくる。ある出来事に対して、「子どもらしい」「人間らしい」感情があり、それらを身につけ、文章にする訓練を行う。同じような感情しか持ちえない課題で、同じような感情を抱くに行きつかせる。言葉は自由に書いてよいのだが、術を習っていないから、似たような言葉しか出てこない。それでも、素直な言語表現とみなされて、褒めてもらえる。褒められれば、児童はそれでよい、そうあるべきと思ってしまう。ここでは、皆同じように子どもらしく、人間らしい感情をもち表現することが、個性や創造性とされる。

じきに学校を卒業して、大人になる。皆同じように大人らしく、人間らしい感情をもち表現することが、個性や創造性とされるだろうか。社会、会社で求められているのは、「皆と同じように」の逆ではないか。著者は、「規範の模倣から生まれる多様性と、選択肢なき自由から導かれる類似性」という、それぞれアメリカと日本の初等教育におけるパラドックスを指摘している。私は、日本が人々に提示する「個性や創造性の定義」が、初等教育後、大学や就労のタイミングで変化することを指摘したい。つまり国が教育で使う定義と、人々が社会・経済活動で使う定義に乖離がある。定義する人が違うのでそりゃ乖離する、とも言えるが、定義を適用され、評価を受けるのは一貫してひとりの人間である。普通に生きていて、あるところで価値基準がいきなり変わり、順応を強いられ、評価されるのだからたまらない。

私の話だ。

小学生時代が、求められる一般的な感情の解や文字、作文のルールを覚える期間だったとすれば、中学生時代は、アメリカ式のライティングをかじった時期だった。英語のスピーチライティングがきっかけで、エッセイや物語の構造、主張と理由の書き方、ユーモアや比喩でふくらませるやり方を個別に教わった。毎日要提出の連絡帳には、英語の日記を書き、英語の教師に添削してもらった。自分で書いてみると、日本語と英語で物事の見方が違うんだとよくわかった。見方が違い、切り取り方が違うと、表現が違った。素朴な表現を場に合わせて変えることは、メイクや服を変えるみたいで楽しかった。同じ感情を抱き、素直に書き、結果が似たような顔の文章よりも、「見方×切り取り方×表現」で表情が変わる文章のほうが、つきあっていて居心地がよかった。

「見方×切り取り方×表現」のうち、見方・切り取り方の部分で、どうにも人に伝わらないことがあった。「ぐふふ♥」と感じることが、心を動かされるポイントが、なんか人と違った。「私はそう感じるんだから仕方ない」とは思っていたものの、相手が混乱したり、不審に思ったりする気持ちも理解できた。共感するにも、何が何だかわからないのは怖い。あれこれ試してみて、論理性・構造・型を使うと、相手を混乱させにくくなると知った。だから型があるんだと合点がいった。型があると、相手がわざわざ初めから情報を整理しなくてもいい。考える道筋を意識すると、人に伝わるようになった。部分的に、あえて逸脱することもできるようになった。「見方×切り取り方×表現+論理性」が、私が何かをつくること、創造性の定義になった。何かをつくることの積み重ねが個性だと考えた。

高校に入ると、受験勉強ばかりになった。同じような感情を、(結果的に)同じように書く練習をした時期を経て、そもそも書かなくなる時期が来たのだ。英語のクラスで、長文を書くことなんてめったになかった(都会のエリート校ならあるかもしれないが、少なくとも田舎にはなかった)。数行の英作文しか書かなかった。国語の授業では、古文・漢文に時間を割くようになり、現代文の読み書きの比率が小さくなった。小論文試験の対策で、初めてアメリカ式のエッセイの型のようなものが教材に出てきたが、志望校に科目がなければ取り組まない。小論文が嫌で、小論文試験がない学校に絞る人もいた。堅牢な型の小論文すら、書かない人のほうが多いのである。クリエイティブライティングのような、ふわふわっとしたイメージが先行する書きものの時間など、入る余地がない。実は「表現の選択肢を増やすための型」なのだが、必要とされていない。

書かない環境が不思議だったので、地下活動的に実験をしていた。「見方×切り取り方×表現+論理性」の公式で文章を書き、大人のところに持って行ったり、全国規模のコンクールに出したりした。創造性の公式でものを作り続けられるのかの実験と、それが社会に通用するのかの検証と、改良のためのフィードバックが、サイクルとしてうまくまわるようにした。活動の結果、「この公式、たぶん大事にせんといけんやつや」と結論づけた。

小中高と書いていたから、求められる個性と創造性の定義が大学で大きく変わったこと、周りの同年代の人たちが動揺し始めたことには敏感だった。たとえ似通ったものでも表現を褒められ、強化されていたのが、急に違いを求められ始めた。アメリカ式は、そもそも人間はお互いに違う、違うままでしかありえないという考えのもと、存在が肯定されていて、技術としての型を与えられる。日本では、別々の人間なのに、初めは同じようになるようプログラムされ、そのあと違うようになれと要求される。存在の変容を強いてくる。意味の変わった「個性的に」「創造的に」のスローガンに、事前アナウンスも、技術の教育もない。

話が難しくなるのは、就活・研修・配属先・仕事で、「個性・創造性」+「協調性」という矛盾する項目が、同等の優先順位で求められることである。求められる「個性的に」「創造的に」の実現方法がわからず、とまどい、悩む。何か奇抜な策を打つと、協調性がないと叱られる。「これだから若手は」とか「ゆとりだから」と世代論が始まる。両方を達成しようとしても中途半端になり、どちらか一方を優先させても非難を浴びる。何を目指して、何をどうがんばればいいのか。考えられることは考え、やれることはやり、そのうえで手詰まりになるのだ。かといって「社会ってそんなもんだ」と諦めたくもないのだ。人事部にいて、数百人の新人や若手社員と関わった。混乱の根っこが似ていたと思う。スマートに打破できた人、ボロボロになってやっとどうにかできた人、結局諦めた人、考えないようにしている人、退社した人、病んだ人、いろいろいた。

個性・創造性の定義の、ひそやかな、急激な変更は暴力的だ。教育に関わる人たち、経済に関わる人たち、両者は明言を避けながらも、静かに、確実に各々の定義を各々のシステムに組み込み、運用を続けている(個人で尽力されている人たちもいる。ここで言いたいのは組織的な、無意識的な、もっと大きな話だ)。

次世代、子どもへの教育をどう変えていくかの議論はもちろん重要だが、その議論を行う、すでに学校を出てしまった私(たち)が何を目指し、どうすればいいのかを考えるのも必要だ。私は共感重視、矛盾を含む目標、ゆえに物事の結果が出ず進まない、どこか不穏な空気の社会の中で、残りの時間、どう言葉を扱い、発言していくか、個をつくっていくか、人と関わっていくかをもっと考えたい。私が個をつくってきた創造性の履歴はいつも書き言葉だった。今は次の手がかりを考えるために、いろいろな国・文化・分野・型の文章を読むことと、真似して書いてみること、新しい型の研究開発を進めているところだ。まだまだ実験は続く。いつか何かしらの形にできたらいいなと思っている。

 

<参考文献>
渡辺雅子『納得の構造―日米初等教育に見る思考表現のスタイル』、東洋館出版社、2004年。

 

 

創造力はいかに定義され、教育されるか―『納得の構造』 読んだ内容のまとめ

渡辺雅子著 『納得の構造―日米初等教育に見る思考表現のスタイル』、書かれてある内容のまとめノート。

 

「納得の構造」とは、書く・語るなどものごとを理解する順番、つまりコミュニケーションの構造である。この本には、日米の小学5・6年生における作文教育、歴史教育、通知表を比較分析した結果がまとめられている。

出版は2004年。日米の他、2000年代にフランス、2018年現在はイランの研究を進めておられる。日米仏の研究論文は、オンラインで読むことができる( 『納得の構造』の抜粋も含む)。

「日・米・仏の国語教育を読み解く–「読み書き」の歴史社会学的考察」

本を読んだ上で考えたことは、長くなるので別記事へ。

創造力をいかに定義し、自己開発するか―『納得の構造』 読んで考えたことのまとめ

 

 

◆作文教育(いかに書くか)

基本の考え方
作文教育は、
日:共通の体験を通じて心の目を養うこと(p.80)
米:書く目的に応じた様式を選ぶ訓練(p.80)

手段
日:
「わたしの考え」「心に残った本」「わたしの調べたこと」などのテーマで、自由に書かせる(p.78)
気持ちが伝わるように詳しく状況を書く、という原則(p.77)
米:
自由であるためには、選択肢が必要。自由のために、教師は徹底的に規範を模倣させる(p.87)
エッセイと呼ばれる小論文と、クリエイティブライティングと呼ばれる創造的作文の二つの型を教える(p.50)
ものを書く時には書く目的があるように、それぞれの様式にも目的があると説明し、指導する(p.54)

説明や文章の順番
日:出来事を過去から順に説明する。時系列。主題を最後に置く傾向(p.11)
米:まず総括や一般主張を述べて、次に理由を述べる傾向。結果から過去に遡る。結論に対して最も直接的な原因のみを述べる(p.11)

評価
日:
教師は部分的によく書けているところを取り上げ、共感的な立場で評語を書く。作文の技術ではなく、児童の表現やそこに表れる気持ちへの共感を述べたコメントが多い(pp.75-76)
米:
エッセイは、作文の構造が守られているか。初めに、何を言うのか明らかにする。次に、主張を擁護する3つの証明か事実を列挙する。最後に、初めとは異なる言いまわしで主張を繰り返す。
クリエイティブライティングは、習った様式の中から選んで、作文の主題と書く目的に沿って、一貫性のある文章を書いているか。各様式独自の構成と表情を使いこなして、最終的にまとまりのある文章を書いているか(p.52)
アイデアがいかに独創的でも、様式にのっとって効果的に伝達できていない場合には、高い評価を受けられない(p.65)

教師が共有する、個性や創造力のイメージ
日:
のびのびとした自然な環境で、感動的な体験の中から育むもの。共感による指導と評価で育つ(p.89)
米:
個性や創造力を表現するアイデアや主張は個人の中に混沌としてある。それを明確に伝えるために、様式による訓練が必要(p.89)
児童がいかに豊富な様式の選択肢をもち、その中から臨機応変に書けるか(p.53)

個性と創造力の指導
日:
教師は「個性的に」「創造的に」とは言わない。個性発揮の方法が、作文技術よりも感情表現に向いている。同じ意見や感想が続いても、自分の言葉で表現すればよいとする。「個性的に」「創造的に」なるように温かく支援しながらも、創造力発揮の失敗については、それを指摘して訂正する叱咤激励がない(p.78)
米:
考えを十分に発展させながら、よりわかりやすく洗練された形にするために、教師が何度も書き直しを指導するが、これは個性や創造力を損なうものではないと考えられている(p.65)
教師は教室で「もっと創造的に」とよく口にする(p.69)

教育の歴史
日:
大正新教育運動に端を発する童心主義と、「綴り方」という学校作文の様式が、思ったままを素直に綴ることによって心の成長を表現する、現在の作文教育を方向づけた。変革の主導は、在野の教育者、児童文学者、現場の教師が担った(p.111)
米:
高等教育の大衆化と科学的枠組みによる説明の重視が、簡明で技術的なエッセイの構造を作り上げた。心理学・英文学・言語学などの大学教授が変革の主導権を握った(p.111)

多様性
日:
技術的習熟度がはっきりと表れない。内容も非常に似通っている(p.77)
似通う原因としては2つ。
①課題の問題:共通体験の思い出、成長の過程、気持ちの動きなどは、時系列の構造が書きやすい。
②作文目的の問題:「感じたまま」「自由」を意識するあまり、様々な文章の規範や書く技術を教えない。児童は、どう自由に書いたらいいのか、その手段がわからない(p.87)
子どもらしい気持ちの表現を追求するあまりに、文章様式の学習を排除して、態度・関心・意欲などの生活指導に重点が移っている(p.111)
米:
手段は「徹底的な形式の模倣」だが、結果は多様なものになる。構成や段落の数まで指定されるため、その中で個性を出すとすれば、形式ではなく内容、つまり主張自体の目新しさや根拠となる事実の選び方、あるいは両者の組み合わせで勝負するしかない(p.55)

 

◆歴史教育(いかに語るか)

「時間の流れ」と「因果関係」
日:
「何が」「どのように」
一連の出来事を初めから順に辿る、時系列連鎖の語り。一連の出来事の過程、様子、手段、背景に焦点を当てる(p.117)
米:
「何が」「なぜ」
結果から逆に連鎖を辿って原因を見つける。人間の意図や目的、行動に焦点を当てる(p.117)

手段
日:
共感を使って理解させ、記憶させる。出来事のつながりを理解させるために、まず歴史的な状況を説明し、次にその状況を身近に置き換えさせ、歴史上の人物がその状況下でどのように感じたか、想像させる(p.122)
わかりやすく、すべての子どもが興味をもてる授業(p.144)
米:
教師が「結果」と定めたある出来事の原因を、過去に遡って見つけさせる。時系列順に並べられた過去の出来事に関して、結果から振り返って原因を探す作業に時間を割く(p.132)

歴史を理解するうえで最も大切な能力
日:歴史上の人物に思いを馳せることができること(p.140)共感力(p.145)
米:分析する能力(p.140)

評価
日:児童の共感的な感想や感情表現を重視する(p.140)
米:児童に論文を書かせ、児童同士に批評させ、プロジェクトとしてまとめさせ、評点をつける(p.140)

教育の歴史
日:
共感的に教えていた時代、実証性よりも挿絵や想像図が重宝された時代、科学的に客観的な歴史を系統的に教える時代、高度成長期を経て、落ちこぼれや児童の無気力が初等教育でも問題になり、「児童の生活に即した」「面白みのある」「教師の教え込みによらない」「児童の内面からの理解」の重要性が強調され、再び共感による教育法に回帰していった(pp.143-144)
米:
もともと時系列で辿る説明だったが、1960年代から70年代にかけて、社会科教育の大改革が起こる。「個別の瑣末な知識はなくとも、物事の構造さえ理解できれば、他の社会現象にも応用可能だ」という考えで、知識のあり方が「情報を収集し暗記すること」から「基本構造を使って情報を選び再構成すること」へと大きく変わった(pp.147-148)
特定の価値観に囚われずに自前の判断を下す技術として、また議論の中から対立する相手との共通点を見出す方法として、分析的批判力を簡便な形式で教えることが、主に高等教育で試みられるようになった(p.149)
ただし、批判・分析力を養う訓練を行うかは、同じ教科書を使っていても学校によって差がある。初等教育から実施しているのは、経済的・社会的に裕福な地域。階層との関係を抜きには語れない(p.150)

 

◆通知表

評価の対象
日:
学校生活すべてにおける、関心・意欲・態度(p.141&159)
内面的な発達と態度が重要(p.167)
米:
試験の成績中心。行動として現れる、観察可能な事柄。
感情や態度の評価に消極的な理由は、
①意欲や関心に点をつけることへのためらい
②価値観の多様性への配慮
③教育と教化の線引き。教育は個人の自由な選択と可能性をひらくのに対し、教化はそれらを制限すること。態度や感情の評価は、特定の態度や価値観を強要する危険性が高く、説得や強制で教化につながってしまうと考える(p.167)

教育の目標
日:
教育基本法で、教育の目標に「人格の完成」を掲げる。心的な目標。時に、「自主性」と「協調性」など、方向性の異なる重点目標が共存する。達成手段の優先順位がつけられないため、目標と行動を因果関係として把握しにくい(p.175)
米:
明確で具体的な目標(p.175)
教育は選択の幅を広げるが、どのように選択し決断するかは、あくまで個人の自由意志に任されるべきとの、「公教育」と「個人」の境界線がある。ゆえに、目標として掲げ、評価する領域を「認知」に限定している。子どもの感情や人格形成の発達といった全人的な教育目標は採用していない(p.169)

 

 

<参考文献>
渡辺雅子『納得の構造―日米初等教育に見る思考表現のスタイル』、東洋館出版社、2004年。

 

 

あまちゃん

今日は詩の気分。無限ループ。

 

存在に潜って言葉を探すとき
涙 鼻水 冷や汗 胃酸が
体じゅうを
満たしていきます

ほんとうに泣いているひとは
鼻水が出るのよと
ドラマを見ながら言ってた母さん
たしかに鼻水は出ますが

いちばん伝えたいひとに
いつも何も伝えられない
手汲みの意味を呼び水に
湿る手のひらを見せあうことなんて

飲みこむ唾で巡るのは
青い期待諦め畏敬絶望戦き確信ありがたみ
っていうかそもそもこんなでごめんなさい
ああ そこだけ殺ぎ取っていかないで

陽を浴びて
白湯を飲んだら
よくなります
さて

 

 

風呂の蛇

照明、追い焚き、換気扇を消して風呂に入ることがある。しばらく湯に浸かり、青い壁を見ていたら、水道の銀色の蛇口の先で、水滴が蛇のようにすっと流れた。暗くて静かなところ、静止画と思っていた視界にいきなり動画が現れて、びくりとした。

 

シャワーからぬるま湯を出す。頭と手を動かして髪を洗う。泡をふくらませて体を洗う。先ほどと打って変わってせわしない動画。今度は何も見ていない。もう蛇口のことしか考えられない。なんで蛇?

 

風呂上がり、化粧水の代わりに辞書へ直行した。英語とドイツ語には雄鶏がいた。オランダ語とロシア語には鶴がいて、フランス語とイタリア語には羊が、アジアには龍がいた!スペイン語には、ライオンと鷲の怪物がいた!

 

アルキメデスを追いかけて、風呂の外で至るユーレカ。おもしろくてにやける。そろそろ服を着よう。

 

 

<参考>

各国の「蛇口」を表す言葉。電子辞書 XD-Z9800 内蔵辞書より。

英語:tap、 faucet はいずれも「樽の栓」、cock、stopcock、turncock は「雄鶏」を語義に含む。
ドイツ語:Wasserhahn。wasser = water、hahn = cock。

オランダ語:kraan。crane(鶴)の意味。日本語「カラン」は浴場などの大型の蛇口で、オランダ語から。
ロシア語:кран。読み方は 「クラーン」。オランダ語から来ていて、意味も同じ。

フランス語:robinet の robin が羊。羊の頭の意。
イタリア語:rubinetto。フランス語と同じ。

繁体字中国語(香港、台湾、マカオ):水龍頭。龍や蛇は水神。
簡体字中国語(中国本土、シンガポール):水龙头。龙が龍、头が頭。

スペイン語:grifo。Gryps、ギリシャ神話に出てくる、鷲の頭と翼、ライオンの胴をもつ怪物グリュプスから。

 

 

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