バラ色のウソをつきなさい

ある小説家がある作品の冒頭で「どうせつくならバラ色のウソがいい」と書いています。真っ赤なウソでもなく、バラ色の夢でもない、バラ色のウソとはどのようなウソのことだと思いますか。よく考えて、あなたなりに、これは!と思う「バラ色のウソ」をついてみましょう。

 

母校の大学、文学部の入試で過去に出された問題である。

 

今の名前は違うが、当時は「総合考査」と「調書課題」と呼ばれる2種類の問題が出されていた。総合考査は計3問。A4サイズ、8ページ、2段組みの文章を読んで、2つの設問にそれぞれ300字以内で答える。加えて、課題文の指定部分を外国語に訳す。調書課題では、与えられたテーマで400字以内の文章を書く。

 

総合考査は、入試の現代文と小論文を合わせたもので、哲学、倫理、社会、文化などから出題される。硬くて緻密でガチガチの論理の世界を歩き抜いたあと、持ち帰ったエッセンスを再び論理的に構成しないといけない。

 

一方、調書課題は論理性に加えて、感性も見られていると思う。強烈だったのは前述の「バラ色のウソ」だが、他にも「架空の本の書評を書きなさい」、「いのちよりも大切なものがあると思いますか」などがあった。私が受けた年は、「見ることや聞くことが優位な現代社会において、『におい』や『かおり』が果たす役割はどのようなものだと思いますか」だった。

 

私は何かを書くとき、つくるとき、時間の8割をメモに費やす。単語を羅列したり、つないだり、まとめたり、連想したり、消したり、書きなおしたり、図を入れたりして、とにかく散らかす。この時点では文章にしない。文章にすると、どう見せるか、どう構成するかにとらわれて、批判的になり、狭くなる。車をぶっ飛ばすケルアックの『オン・ザ・ロード』よろしく、「いいね!いいね!いいね!!」とスピードを上げて突き進む。次の1割で、出てきたものを放っておいたり、ぼけーっと眺めたりする。最後に、残りの1割で整理整頓する。紙いっぱいに書きなぐった雑多な絵の上で、迷路の入口と出口をつなぐように線を引き、それ以外を消し、よそいきに仕立てる。

 

この、幼い頃からの実験で得た「書きかた」「つくりかた」を眼鏡にして、世界を見ることがある。学校を出て、ビジネスの現場に行くに従って大きくなっていく、「論理的思考力が重要」の声。企業研修のコンテンツとしては人気だったが、私は内心「重要とはいえ1割だ」と自分の企画では扱わなかった。何を材料にするか選ぶことなしには整理整頓しようがない。かといって、感性だけというのも違う。どっちも必要だ。

 

過去問を取り寄せたとき、「この大学はたぶん、入試の設計を通して、『感性と論理、どちらも大切です』と言っている」と思った。のちに指導教授から「傾向は出題者によって変わるよ」と教えてもらった。確かに近年の問題は奇天烈さが薄まっているのだが、あの時期、出願から入試、入学、卒業を通して、大学や学部の在りかたに私が大きく励まされたのは事実だ。

 

バラ色のウソ。今なら何を書くか。

 

 

パターソン席

市バスの運転席の反対側、いちばん前、他よりも高い位置にある座席を、「パターソン席」と呼んでいる。

ジム・ジャームッシュの映画、「パターソン」。
主人公のパターソンはバス運転手。
毎日の生活や目に映る景色、出会う人々からインスピレーションを受けて、こつこつと詩を書いている。
奥さんは出版を勧めるけれど、彼は乗り気じゃない。

バスを走らせるいつもの道を、出来たての詩で彩るシーン。
バスに乗って思い出した。
奇しくも、アメリカは左ハンドル。
気分はパターソンだ。

夕方、買いもの帰り。
白い手袋をはめた運転手。
足をゆったりと伸ばし、くつろぐように座っている。
ハンドルをふわっと持つ。
撫でるように回す。
ペダルをじわっと踏む。
やわらかさを保ったまま、ボタンを押して、ドアを開き、閉める。
ICカードをチャージしたいという人に、期待を裏切らないゆっくりとした声で、指差しつきの説明をした。
終始ピアノを弾くように、つつつと指先の余韻が残った。

降りる前に、足もとのノートを探した。
パターソンみたいに、詩を書きとめているんじゃないかと思ったのだ。

 

 

Flamboyantly 自信をもって、大胆に

いつも大切なことを教え、気づかせ、思い出させてくれる友人へ。文章は本来、誰か一人に届けば、あるいは過去や未来の自分に届けば充分だとあらためて思った。燦燦と進むんだ。

 

 

flamboyant

(of a person or their behaviour) tending to attract attention because of their exuberance, confidence, and stylishness.

人や態度が、あふれるエネルギー、自信、かっこよさゆえに目をひくこと

ORIGIN: mid 19 cent.: from French, literally ‘flaming, blazing’, present participle of flamboyer, from flambe ‘a flame’.

フランス語 flambe「炎」や flamboyer「燃えるように輝く」に由来する

 

 

ページをめくると、‘Do it flamboyantly’ とあった。音で、フランス語由来だと当てた。飾り気のない ‘Do it’ に、‘flamboyantly’ が紅をさす。美しい炎。気がつけば、コーヒーを飲みほすまで見とれていた。慌てて支度を始める。

 

昔から、比喩表現が好きだった。直訳と実際の意味に飛躍があるといい。たとえば ‘have butterflies in one’s stomach’(お腹の中で蝶が羽ばたいている)は、「そわそわして落ち着かない」の意味。辞書で見つけた時、たちまち蝶が現れて、私のお腹に入り込み、鼓動を急かした。あるイメージに魅了されると、保温マグさながら、昼夜興奮が冷めない。

 

同期入社のみきは、見るからに血のめぐりがいい。止まっているより、動いている。風を切って走る。軽快、快活、活発。彼女だけ、重力のかかり具合が弱いのかもしれない。英語が堪能。留学経験あり。見ている世界が広く、考え方まで筋肉質。

 

会社で働くとは、言葉を覚えて使えるようになること。会社員として言葉を覚え、使い方に慣れ、何を口にして、口にすべきでないかを知った。説明と説得の腕を磨いた。消化されやすいように噛み砕いた言葉を、よどみなく饒舌に発するたび、言葉と体が私のものではないように感じて、黙りたくなった。

 

彼女は海外向きで、私はそもそも組織向きではないと、私たちは早い時期に気づいていた。もしかしたら、新しいものをつかめるかもしれない。期待とは裏腹に、仕事に精を出すほど、社内のキャリアに限界を感じた。手持ちの言葉を組み替えて、解を見つけようとした。別々の部署で、同じような悩みを抱え、似たような逃げに走ろうとした。いつも踏みとどまった。外に出るのが怖かった。互いが互いの中に、自分を見ていた。相手の後押しもできず、くすぶっていた。

 

入社して6年。ひょんなきっかけで、私が先に出た。もっと言葉を探究しようと決めた。それから2年、彼女も出て、海外で働くと決めた。

 

セーターが似合う季節。編み目に太陽を透かした、彼女を見送る日。出かけに見つけた、‘flamboyantly’  の話をした。組織を出たら、好きだった感覚が戻ってきたんだよと。彼女は、単語を繰り返し発音して、「ああ」と言った。やわらかくほほえんで、「じゅんこらしいね」と続けた。

 

「ねえ、‘flamboyantly’ にがんばろうよ」

「それはいいね」

 

別れるまでの道で、初めてツーショット写真を撮った。初めて化粧品の話題で盛り上がった。ツヤの出る、化粧下地の話。日に焼けた、化粧っ気のない彼女の頬を見ながら、内心、わざわざ仕込まなくても人は光を放つと思っていた。ふたりで「女友だちって感じだね」と笑った。

 

私たちをがんじがらめにする言葉、体裁を繕う言葉、嘘、理不尽な言葉、偉い人たちの言葉、キーワード、キラーセンテンス、若者だから、女性だからと押しつけられたアドバイス、コピーアンドペーストでむやみに増殖していく流行り言葉、機嫌をとるための言葉。評価、褒められた時の言葉、寄りかかっていた言葉。そんな言葉でいっぱいの、用語集代わりに使ってきたノートを、たき火に薪をくべるように、ゆっくりと破って燃やした。

 

新しいノートに ‘flamboyantly’ と書いて、私たちは歩き始めた。燦燦と進むのだ。

 

 

協力

絵 ふない ななこ

写真 Y

 

 

【翻訳】ヴァージニア・ウルフ「クラフツマンシップ」

「言葉は、辞書の中に住んでいるのではありません。心の中で暮らしているものなのです」

 

ヴァージニア・ウルフ(Virginia Woolf; 1882-1941)は、イギリスの代表的な作家である。この「クラフツマンシップ」というエッセイは、1937年4月29日の夜、BBCでラジオ放送されたもの(残存する唯一のウルフの肉声)。フルテキストは、1942年に出版された ‘The Death of Moth and Other Essays’ に収録されている。

BBCは、彼女の死去から75年経った2016年、「クラフツマンシップ」の肉声をもとにアニメーションを制作した。

Words Fail Me- Virginia Woolf- BBC Culture from Phoebe Halstead on Vimeo.

一目見て、言葉に対する感覚が似ていると思った私は、どうしても原文を読みたくなった。読まなければならないと思った。しかし翻訳が見当たらない。もしかしたらどこかにあるのかもしれないが、ひとまず見つからないので、自分で翻訳してみることにした。手に入った参考文献をもとに解きほぐし、あーだこーだ言いながら考えあぐね、何度も中断し、やりなおし、声に出して、膝を打ち、どうにか意味の通るものになった。

大学の翻訳の授業を、もっと真面目に聞いていればよかった。2018年5月時点で、これが私の限界である。ベストは尽くした。誰よりもまず、自分のために訳した。何度も読み返すだろう。何かあれば、少しずつ修正していくつもりである。何はともあれ、フルテキストを読んだあと、2分半に凝縮されたアニメーションを見ると、胸に迫るものがあるので、言葉に関心のある方には、フルテキスト→アニメーションのルートをおすすめしたい。

なお、アイキャッチは、よーく見るとグラデーションの蝶である。多様で自由な存在である言葉をイメージした。

 

前置き(本文を理解するための、背景知識)

BBCのプロデューサー George Barnesが企画したラジオシリーズ ‘Words Fail Me’ は、1937年4月8日から6月17日にかけ、言葉に関する著名人を招き、8回にわたって放送された。言葉の意味を制限すべきでないこと、人間は言葉のしもべであることを主張するウルフに対し、6人のスピーカーが、言葉の意味を制限すべき、言葉が人間の手中にある、という立場を取った。

ウルフは4番目のスピーカーだった。1番目のスピーカー A. Lloyd Jamesは音声学者で、BBC諮問委員会の書記を務めた人物。言葉の美よりも実用性、文学性よりも日常性を重視する立場で、文法の重要性を説いた。2番目のAllan Fergusonは物理学の助教授で、現代英語の語彙が爆発的に増えていることを取り上げ、新しい科学用語は簡単で明瞭なものでなければならないと述べた。3番目のLogan Pearsall Smithは、ウルフが1917年に設立した出版社Hogarth Pressで作品を出版したことのある作家で、BBCの口語英語諮問委員会のメンバーだった。純正英語協会の発起人の一人でもある(純正英語協会はA. Lloyd James著の発音に関する小冊子を発行したことがある)。言語学的な純粋主義の立場から、ラテン語やギリシャ語を語源にもつ単語を使う現代英語は、純粋な英語に比べて美しくない、生き生きとしていないと述べた。*注:英語はゲルマン語。1066年のノルマン・コンクエスト以降からフランス語が流入した。16世紀以降はラテン語、ギリシャ語から直接借用する言葉が増えた。最後のスピーカー、Alistair Cookeのみ、言葉を美的対象としてとらえるウルフのセンスに共感した。

ウルフは、1937年4月3日の日記に話の核となる考えをメモしている。この時点ですでに、George Barnesが提示した「クラフツマンシップ」というタイトルを変更しようと決めていた。

 

– – – – – 本文開始 – – – – –

*文章内の角括弧([ ])、アスタリスク(*)以下の脚注、および改行は、訳者によるものである。

このラジオシリーズのタイトルは「言葉にならない」で、今回依頼されたお話は「クラフツマンシップ」ということになっています。それゆえお聞きの皆さんは、私が言葉のクラフト、つまり書き手の職人技についてお話するとお考えでしょう。しかし、こういうふうに言葉をあててみると、どこかぎこちない、しっくりこない感じがあります。いつもは困った時に頼る英語の辞書ですが、今回は疑問を余計に深めるばかりです。辞書によると、‘craft’ には二つの意味があります。一つは、「固体から実用的なものを作ること」です。例えば、ポット、いす、テーブルなどですね。もう一つは、「おべっか、狡猾さ、偽り」です。私たちに言葉の正確なことはわかりません。しかし言葉が実用的なものを何も作らないこと、言葉が真実を、真実しか伝えない唯一のものであることなら知っています。それゆえ、言葉との関連でクラフトの話をするには、ふたつの矛盾する意味を合わせなければなりません。つじつまを合わせても、博物館のガラスケースに飾るしかないような、何か奇妙なものしか生まれません。ですからすぐに、話のタイトルを変更する必要があります。代わりに、「言葉をめぐる散歩」がいいでしょう。

こうお話しするのも、話は冒頭を省くと、首をはねられたニワトリのようになってしまうからです。ぐるぐる走り回って、ついには息絶えてしまいます。そして、ニワトリを殺したのは誰だという話になります。これが首のない話の成り行き、悪循環です。

さて、言葉は実用的なものではない、という点から話を始めましょう。これは幸い、あまり証明する必要がありません。すっかりわかりきっているからです。例えば、私たちが地下鉄で移動しようと、プラットホームで電車を待っているとしましょう。電光掲示板には、‘Passing Russel Square’(ラッセル・スクエア駅を通過)と表示されています。私たちはその言葉を見て、復唱し、実用的な情報としてよく覚えておこうとします。次の電車は、ラッセル・スクエア駅を通り過ぎる、と。ゆっくりと歩きながら、何度も ‘Passing Russel Square, passing Russel Square’ と口にしているうちに、言葉がシャッフルして変化します。そして、こう言っている自分に気づくのです。

‘Passing away saith the world, passing away…. The leaves decay and fall, the vapours weep their burthen to the ground. Man comes….’
(過ぎてゆくのだ、こう世界が言った、過ぎてゆくのだ…。木々の葉も、時が到れば朽ちて落ちる。霧は、その重荷の水分を泣いて大地へ降らせる。人間はこの世に到り…。)
*注:前半部分は、Christina Rossetti (1830-1894) の詩、後半はAlfred Tennyson (1809-1892)「ティトーノス」の一節。

次に気がついた時には、キングズクロス駅に到着しています。

他の例も見てみましょう。客車の向かい側に、‘Do not lean out of the window’(窓から身を乗り出さないでください)との注意書きがあります。一読で実用的な意味、表面的な意味が伝わってきますが、席に座ってじっと見つめているうちに、言葉はたちまちシャッフルし、変化し、私たちはこう口にし始めます。

‘Windows, yes windows―casements opening on the foam of perilous seas in faery lands forlorn’
(窓、そう、窓。物寂しい妖精の地に、危険な海の泡を見せた窓)
*注:casements以下が、John Keats「ナイチンゲールへ寄せる歌」の一節。主人公が死を夢想する内容の詩。

そして窓から身を乗り出して初めて、自分が何をしているのかに気がつくのです。故郷を思うあまり異郷の地に涙したルツを探しているのです。*注:同上の詩の表現。ルツは旧約聖書、ルツ記に出てくる寡婦。そうして課されるペナルティは、20ポンドか首の骨折くらいでしょう。

このことが証明するのは、証明する必要があればですけれども、言葉がもともとあまり実用的なものではないということです。言葉の元来の姿に反して実用性を強く求めるなら、私たちは言葉がいかに人間を誤解させ、もてあそび、頭をペチンと叩いてくるかを、辛酸をなめて知ることになります。[言葉のせいで、すべきでないこと、思いがけないこと、不必要なことをしてしまう、不注意で危険な状況に陥ってしまうというように]、私たちはいつも言葉に馬鹿にされてきました。言葉は私たちに、実用的であることが嫌いだ、一つの単純なことではなく、千の可能性を表現するのが自分らしさなのだと言い続けてきました。しょっちゅう言われ続けてきたおかげで、私たちもついに事実と向き合おうとしています。実用的なことを表現するのに完璧で、すばらしくぴったりな別の言語、記号としての言語を作り始めているのです。

私たちはこの言語をたいへん使いこなしている方に、実にお世話になっています。男性なのか女性なのか、はたまた肉体のない亡霊なのかは誰も知りません。この名前を明かさぬ書き手は、ミシュランガイドでホテルを評価する記事を執筆しています。あるホテルを「ほどほど」、別のホテルを「優良」、もうひとつのホテルを「最高」と言いたい時、ミシュランはどのように伝えるのでしょう。言葉を使うのではありません。言葉はすぐに、低い木々、ビリヤードテーブル、男女、昇りゆく月、夏の海の大きな水しぶきなどを想起させます。いいものではありますが、ここではすべて的外れです。ミシュランは、ホテルに対して切妻の印を一つ、二つ、三つつけるというように、記号にこだわります。これがミシュランの言うことのすべてで、言うべきことのすべてです。

ミシュランの旅行ガイドの影響で、記号の言語は崇高なアートの世界にも広がりました。ミシュランは、ある絵のよさを伝えたい時、星を一つつけます。とてもよいと思ったら、二つつけます。ミシュランによれば、ずば抜けた天才の作品なら、黒い星を三つつけて掲載するようです。それがすべてです。わずかな星と短剣の印 [†: 没年を表す] のせいで、芸術批評の全体が、文芸批評の全体が、つまらないサイズに縮められてしまうかもしれません。人が単純化を望むこともありますけれどね。

けれども、このことは、やがて書き手が仕事で2種類の言語をもつことを示しています。一つは事実を表すための、もう一つはフィクションのための言語です。伝記作家が、有益で大切な事実を伝えなければならない時、例えば「1892年、オリバー・スミスは大学で三等級だった」という事実を伝えなければならない時、彼はそれを表現するのに、5という数字の上に0をつけた記号を使うでしょう。小説家なら、「ジョンは呼び鈴を鳴らした。しばらくしてメイドがドアを開け、『ジョーンズさんは外出なさっています』と言った」という話を伝えなければならない時、読み手の利益と自身の満足を考慮し、メイドのそっけない言い草を言葉ではなく、3という数字の上に大文字のHをつけた記号で表現するでしょう。こうして私たちは、伝記や小説が記号の連なりにまで引き締まり、薄っぺらくなる日を心待ちにするのかもしれません。そして鉄道会社が、「言葉の使い方が不適切なため、『窓から身を乗り出さないでください』という言葉に、5ポンド以下の罰金を科します」と言ってくれることを期待するのかもしれません。

というわけで、言葉は実用的なものではありません。今度は言葉の別の面、よい面である、真実を伝える力について考えましょう。もう一度辞書に従えば、真実には少なくとも三つの種類があります。神や福音が伝える真実、学問上の真実、知人に知られたくない真実(一般的にはありがたくないもの)です。一つずつ考察するには時間がかかりすぎるので、簡略化して断言します。言葉はもっとも嘘をつかない、確かなものです。真実かどうかを測る方法は寿命だけであり、時が目まぐるしく変わる中、他のものよりも長く生き残っているのは言葉だからです。建物は崩れ、大地ですら滅びます。昔とうもろこし畑だったところに、今日は家が建っています。しかし言葉は、適切に使われると永遠に生きるように思えます。

そうして次に問いたくなるのは、言葉の適切な使用とは何かということです。それはこれまでに述べてきたような、実用的な言葉で表現することではありません。ここでいう実用的な表現とは、ある一つのことしか意味しない表現を指します。本来、言葉は多くのことを意味するものです。先ほどのシンプルな文、‘Passing Russel Square’ を取り上げましょう。表面的な意味のほかに、多くの隠れた意味を含んでいるために、実用的でないことがわかります。‘Passing’ という言葉は、形あるものの儚さ、時の流れ、人間の命の入れ替わりをほのめかしました。‘Russel’ は、葉っぱのカサカサという音や、磨かれた床の上でスカートの裾が立てるサラサラという音をちらつかせました。*注:いずれの音も ‘rustling’。’rustle’ と ‘russel’ は同じ発音。 [ラッセル・スクエアの近くにある、ファミリーネームが ‘Russel’ の]ベッドフォード公爵家や、ある時期の英国史も暗示されます。‘Square’ からは、寒々しい漆喰の壁の角を連想するような、実際の正方形のイメージが見えてきます。このように、最もシンプルな類の一文でも、想像力、記憶力、目と耳を掻き立てるのです。

想像力や記憶力、目、耳は、私たちが文を読むとき、一斉に働き始めます。これらが一斉に働き始めるのは、無意識の間のことです。私たちが、ここでお話してきたように隠れたものを探り当てて強調するやいなや、その力はわざとらしいものになります。私たち自身も、専門家や、意味を気にせずに気取った言葉を使う作家、名言家のような、わざとらしい存在になってしまいます。もはや読者ではなくなるのです。読む時には、隠れた意味を隠れたまま、ほのめかしのままにしておかなければなりません。明示してはいけません。河川敷の葦のように、時の流れに沿って互いに合流していくさまを、そのままにしておかなければなりません。

‘Passing Russel Square’ は言うまでもなく、基本的な言葉でできています。奇妙なところはありません。魔性の力の形跡もありません。魔性の力というのは、タイプライターから打ち出された時ではなく、人間の頭から出てきたばかりの時に言葉が帯びる、書き手のことをほのめかす力です。言葉は、書き手の性格、外見、配偶者、家族、家、そして暖炉の前で敷物に横たわる猫でさえ暗示します。なぜ言葉がこんなことをするのか、どうやってやるのか、どうしたらそれを阻止できるのか、知っている人はいません。言葉は書き手の意志なしで、しばしば書き手の意志に反して動くのです。おそらく、自身の情けない性格や私生活の秘密、よくない習慣を読者にさらけ出したい書き手はいません。しかし、タイプライターでないライターが、個を全く表に出さずにいられたことがあるでしょうか。私たちはいつも、必ず、作品と同じように書き手のことも知っているものです。言葉は、よくない本からとても魅力的な人間を、よい本から同じ部屋にいるのも我慢ならない人を匂わすことがよくあります。生まれて数百年の言葉でさえ、この力をもっています。生まれたての言葉の力はとても強く、書き手の意味をかき消してしまうほどです。これが、私たちが目にし、耳にする言葉というもので、存命の書き手への評価がとても不安定な理由のひとつです。書き手が死去して初めて、彼の言葉はある程度消毒され、生身の人間の災難を取り除かれるのです。

言葉の特性の中で最も神秘的なもののひとつが、この暗示の力です。これまでに文章を書いたことがある方なら、程度の差はあれご存じでしょう。単語、英単語の意味は、生まれつき反響、記憶、連想で満ちています。彼らは何世紀も、人々の唇の上や、家の中、路上、野原を歩き回っています。今日、単語を書く際に大きな困難があるのは、単語が意味と記憶を非常に蓄えていること、つまりこれまでに多くの名高い婚姻契約を結んできたことに原因があります。鮮やかな単語、‘incarnadine’(淡紅色)を例にあげます。‘multitudinous sea’(あまたの海)と一緒に思い出すことなく使える方はいらっしゃいますか? *注:William Shakespeare (1564-1616)『マクベス』より。もちろん昔は、英語が生まれたての言語だった頃は、書き手は新しい単語を開発し、使うことができました。今日、新しい単語を開発するのはたやすいことです。私たちが新しい景色を見たり、新しい感情を覚えたりするたびに、単語は口をついて出てきます。しかし、私たちはそれを使うことができません。[文法規則の体系であるところの]言語が、古いものだからです。あなたは真新しい単語を、古い言語の中で使うことができません。実に明らかで、そのくせ不思議なことですが、個々の単語は単独の分離した実体ではなく、複数の単語の一部であるからです。それどころか、文の一部になるまでは、単語ではありません。もちろん、‘incarnadine’ と ‘multitudinous sea’ が切っても切れない関係にあると知っているのは偉大な書き手だけですが、単語はお互いに離れられない関係にあるものなのです。新しい単語と古い単語を組み合わせるのは、文章の組み立てにおいて致命的なことです。新しい単語を適切に使うためには、新しい言語を開発しなければならないでしょう。そう考えるのが当然の帰結ですけれども、今のところ、私たちにどうこうできる問題ではありません。私たちにできるのは、ありのままの英語を使って何ができるのか、考えることです。単語が生き永らえ、美を作り出し、真実を伝えられるようにするためには、私たちはどのようにして古い単語を新しい順番で組み合わせられるでしょうか。それが問題なのです。

この問題に答えられる人は、世界が差し出すあらゆる栄光の冠を戴くに値するでしょう。あなたがその作文技術を人に教えられるとしたら、究められるとしたら、どんな意味をもつか考えてみてください。あらゆる本や新聞が、真実を伝え、美を作り出すことになるかもしれません。しかしどうやら、そうなるには邪魔な障害、言葉を教えることには障害があるようです。この時点で、少なくとも100人の教授が昔の文学について講義を行っているにもかかわらず、また少なくとも1000人の批評家が今日の文学を批評しているにもかかわらず、そして無数の若い男女が、最高の功績で英文学の試験に合格しているにもかかわらず、私たちは講義や批評、教育の機会がなかった400年前の人々よりも、うまく書き、うまく読んでいるとは言えません。私たちジョージ王朝の文学は、エリザベス朝の文学と同等なのでしょうか。いえ、比べ物になりません。それなら私たちはどこにその責任を負わせることができるでしょう。責任の所在は、教授でもなく、批評家でもなく、書き手でもありません。言葉なのです。とがめられるべきは、言葉なのです。

言葉は、すべてのものの中で最も手に負えないもので、自由で、あてにならず、教えにくいものです。もちろん、つかまえて、分類して、辞書の中にアルファベット順で並べることはできます。しかし、言葉は辞書の中に住んでいるのではありません。心の中で暮らしているものなのです。証拠をお求めなら、あなたが言葉を必要とするような感情の時、どれくらい言葉を見つけられなかったかを考えましょう。依然、辞書は存在し、私たちの自由になる言葉が約50万、すべてアルファベット順に並べられています。私たちはそれを使えるでしょうか。いえ、使うことができません。なぜなら、言葉は辞書の中ではなく、心の中で暮らしているからです。もう一度辞書を見てください。そこにある言葉は、間違いなく、『アントニーとクレオパトラ』[Shakespeare]よりもすばらしい戯曲、「ナイチンゲールへの歌」[Keats] よりも美しい詩、隣に並べると『プライドと偏見』[Jane Austin; 1775-1817] や『デーヴィッド・コパーフィールド』[Charles Dickens; 1812-1870] が素人のひどい作品だと思えるような立派な小説になりえます。それはただ、適切な言葉を見つけ、適切な順序で並べられるかどうかの問題ですが、私たちにはできません。なぜなら、言葉が辞書の中ではなく、心の中で暮らしているからです。

では、言葉はどうやって心の中で暮らしているのでしょうか。人間が生きるのと同様にさまざまに、また奇妙なことに、言葉はあちらこちらを歩き回り、恋に落ち、婚姻を結びながら生きています。私たち人間と比べて、言葉は儀式や慣習にとらわれることがずっと少ない生き物です。王室の言葉は、庶民の言葉と結婚します。英語は、好みの相手なら、フランス語、ドイツ語、インディアンや黒人の言葉とも結婚します。実は、私たちが敬愛する母国語、英語の過去を詮索しなくなるほど、彼女の評判は上がるのです。なぜなら、彼女は放浪の旅の中、生きてきたからです。

したがって、そんな矯正を突っぱねてしまうようなさすらい人に規則の話をすることは、役に立たないどころか有害です。ほんのわずかな語法や綴りのルールでさえ、すべて私たちが言葉に強いる制約となります。言葉は、深くて暗い、時折光に照らされるくらいの洞窟のほとりに住んでいます。それが心と呼ばれる場所です。心に目を凝らす時、私たちに言えるのは、言葉は、言葉を使う前に、考え、感じてほしいと願っているということです。それは言葉についてではありません。別のことを考えたり、感じたりしてほしいようです。言葉はとても敏感で、自意識過剰になりやすいものです。生まれが純粋だとか、不純だとかの議論をされたいのではありません。もしあなたが ‘Society for Pure English’(純正英語協会)を始めるなら、言葉は非純正英語協会でもつくり、憤りをあらわにするでしょう。*注:純正英語協会は1913年に設立された組織で、初期メンバーにはE. M. Forster (1879-1970)、Roger Fry (1866-1934)、Thomas Hardy (1840-1928) らがいる。 そしてここから、現代英語にまつわるお話の多くに、不自然な乱暴さが生じます。純粋な英語を支持する人々への異議申し立てが始まるのです。

言葉はたいへん民主的でもあります。言葉は、ある言葉と他の言葉が、教養のない言葉と教養のある言葉が、洗練されてない言葉と洗練されている言葉が、すべて同等だと思っています。言葉の社会には階級や肩書がありません。言葉は、ペン先で持ち上げられ、別々に考察されたいのではありません。言葉は文の中で、段落の中で、時には一度に数ページの単位で、手をつなぎ合っています。言葉は、実用的であることを嫌います。お金儲けに使われるのを嫌います。人前で講義されるのを嫌います。つまり言葉は、ある一つの意味に決めつけられたり、ある一つの態度に制限されたりするのを嫌うのです。それは、変化していくのが言葉の性質だからです。

おそらくこの変化の必要性が、言葉の最も際立つ特性です。それは、言葉がつかもうとする真実が多面的なものだからであり、言葉はその多面性を、あの手この手で出現しながら、自身が多面的になることによって伝えます。言葉は、ある人にある意味を差し出し、別の人には別の意味を差し出します。ある世代にとってわかりにくかった言葉が、次の世代にはとても明白なものになることがあります。この複雑さゆえに、言葉は生き延びているのです。私たちが同世代に偉大な詩人、小説家、批評をもたないのは、おそらく、私たちが言葉の自由を認めていないことが原因です。私たちは、言葉を[標本の蝶のように]、一つの意味、実用的な意味にピン留めします。私たちは、電車に乗るときに役に立つ意味、試験の合格に役に立つ意味しか、認めていないのです。言葉はピン留めされると、羽をすぼめて死んでしまいます。

最後に、これはいちばん強調しておきたいのですが、言葉は私たちと同じように、羽を伸ばすためにプライバシーを必要とします。私たちが言葉を使う際、言葉は間違いなく、使う前に考えてほしいし、感じてほしいと願うのですが、同時に、私たちに少し立ち止まってほしいとも、無意識に使ってほしいとも思っています。私たちが無意識でいることがすなわち、彼らのプライバシーが守られることです。私たちにとっての暗闇が、彼らにとっての光なのです。休止が生まれ、闇のベールが剥がされると、言葉は光に誘われて、集まり、たちまち結合し、完璧なイメージとなって永遠の美を作り出します。

いえ、しかし、今夜はこういったことは起こりそうにありません。いたずら者たちが、無愛想に、反抗的に、直接話しかけようとはせずに怒っています。彼らは何をぶつぶつ言っているのでしょうね。

 

「もう時間だ!黙れ!」

 

– – – – – 本文終了 – – – – –

 

オンラインで確認できる原文は以下。翻訳に使用したのは、脚注つきのOxford版(後述)

The University of Adelaide Library (n.d.). The Death of the Moth, and other essays, by Virginia Woolf. Retrieved May 8, 2018 from https://ebooks.adelaide.edu.au/w/woolf/virginia/w91d/chapter24.html

 

参考文献

<一次資料>
Woolf, Virginia. 1942. Craftsmanship. In David Bradshaw (ed.). Selected Essays. London: Oxford University Press.
Woolf, Virginia. 1985. The Diary Of Virginia Woolf, Volume 5: 1936-1941. Boston: Mariner Books.

<二次資料:書籍>
Bell, Quentin. 1996. Virginia Woolf. London: Pimlico.
Gavin, Alice. 2014. Literature and Film, Dispositioned: Thought, Location, World. London: Palgrave Macmillan.
Koppen, Randi. 2014. Rambling Round Words: Virginia Woolf and the Politics of Broadcasting. In: Matthew Feldman, Erik Tonning & Henry Mead (eds.), Broadcasting in the Modernist Era. New York: Bloomsbury USA Academic.
安西徹雄. 1995. 『英文翻訳術』 東京: 筑摩書房.
西前美巳 編. 2003. 『対訳テニスン詩集』 東京: 岩波書店.
宮崎雄行 編. 2005. 『対訳キーツ詩集』 東京: 岩波書店.

<二次資料:ウェブサイト>
British Broadcasting Corporation. 2014. Rare recording of Virginia Woolf. Retrieved May 8, 2018 from http://www.bbc.com/news/av/entertainment-arts-28231055/rare-recording-of-virginia-woolf
Kopley, Emily. 2017. Virginia Woolf and craftsmanship? London: TheTLS. Retrieved May 8, 2018 from https://www.the-tls.co.uk/articles/public/virginia-woolf-craftsmanship/
Macdonald, Fiona. 2016. The only surviving recording of Virginia Woolf. London: British Broadcasting Corporation. Retrieved May 8, 2018 from http://www.bbc.com/culture/story/20160324-the-only-surviving-recording-of-virginia-woolf

<アイキャッチ>
雄鶏社 編. 2009. 『クロス・ステッチノート―An embroidery note of French Style』 東京: 雄鶏社.
学研 編. 2010. 『クロス・ステッチ復刻図案集』東京: 学研パブリッシング.

 

 

葉桜を覚える

歌や料理、香りで昔のことを思い出すのと同じように、私は単語で人を思い出すことがある。新しい言葉を覚える瞬間が、人とセットになっている場合がある。それが珍しくて、うれしいものだと、書いて整理したら気づいたという話。

 

「葉桜」の単語で、思い出す人がいる。「桜」では思い出さない。その人を見て、「葉桜」を思い出すこともない。単語で人を思い出すというのが不思議で、言葉の覚え方を整理することにした。私の、言葉と意味をつなげる方法は、今のところ大きく分けて2種類あるようだ。

1 新しい言葉を知る
2 すでに知っている言葉の意味を広げる

 

そしてそれぞれが、次のように枝分かれする。

1 新しい言葉を知る
 1-1 辞書をひく
 1-2 人に教えてもらう

2 すでに知っている言葉の意味を広げる
 2-1 人に教えてもらう
 2-2 観察する

 

またそれぞれに、それぞれの葉が生える。

1 新しい単語を知る
1-1 辞書をひく
 1-1-1 納得できるまで説明文を読む
 1-1-2 ひとつめの意味、ふたつめの意味…..と、別々に書かれてある意味を重ねるように読む
 1-1-3 語源から想像をふくらませる
 1-1-4 初見と実際のギャップを利用する

1-2 人に教えてもらう

2 すでに知っている単語の意味を広げる
2-1 人に教えてもらう
2-2 観察する
 2-2-1 話しているのを聴く
 2-2-2 書いてあるのを読む

 

それぞれについて、詳しく見に行こう。まずは、新しい言葉を知るために、辞書をひく場合。

 

“Don’t you love the Oxford Dictionary? When I first read it, I thought it was a really really long poem about everything.” ― David Bowie

 

1-1-1 納得できるまで説明文を読む

物事の定義を書いているのが辞書だが、一度ひいて、短い文章を読んで、「よし、わかった」と思うことは少ない。国語辞典については、説明文が足りない。例えば「説明」を「説き明かすこと」と書くように、説明になっているようで、なっていない言葉が多い。そのため、複数の辞書サーフィンは必須だ。漢字は漢和辞典を、外来語は英和辞典をあたる。英語は、英和、英英にあたる。電子辞書が活躍する。

 

1-1-2 ひとつめの意味、ふたつめの意味…..と、別々に書かれてある意味を重ねるように読む。

言葉は生きものなので、時代や環境で意味が変わっていく。連想ゲームのようだ。ひとつめの意味を確認して覚えればOKではなく(というかそういう覚え方が全くできず)、意味の総体として、できるだけ立体でさわろうとする。

 

1-1-3 語源から想像をふくらませる

指導教授が、「英語は文献化への執念が強い」と言っていた。電子辞書の英和大辞典やOxfordの辞典には、ギリシャ語やラテン語、フランス語、古英語、中世の英語がもとになっているとか、「ここまでは明らかになっているが、ここからは不明」など、必ず語源や語の変遷が書かれてある。例えば“cherry”なら、「初14c;ギリシア語 kerasos(サクラの木)」とある。

漢和辞典でも、解字で文字のつくりを知り、想像する。「桜」は、「櫻。嬰(エイ)は、『貝二つ+女』の会意文字で、貝印を並べて、首に巻く貝の首飾りをあらわし、とりまく意を含む。櫻は『木+嬰』で、花が木をとりまいて咲く木」とある。

言葉が作られたのは過去のことなので、どんなに研究が重ねられても、語源は本質的に正しさを見極められないものだし、現在使われている意味とかけ離れているものもある。ただ、私が言葉のイメージやニュアンスをつかむには役に立っているし、「こういう始まりだから、私は、こういう使い方をしよう」と決める手だてにもなっている。言葉を作った人、使っている人の見ている景色を、垣間見るような感じだ。

最近は「取」がおもしろかった。「『耳+又(手)』で、捕虜や敵の耳を戦功のしるしとして、しっかり手に持つことを示す。手の筋肉を引き締めて物を話さない意を含む」とあり、血や暴力を想起した。「奪い取る」とか、荒々しい、力のこもった文脈では最適だが、やわらかいものには合わせたくないなと、「私は」感じた。現在の意味における含有率はだいぶ低い、ほぼないようだが、私がそう感じたことは事実だし、それでいいと思っている。

 

1-1-4 初見と実際のギャップを利用する

ぱっと見の印象と想像を、実際の意味で答え合わせするような、なぞなぞのような過程を経る。

例えば“bench warmer”。英語が母国語でないからこそ、いったん「ベンチを温める人」と直訳する。それから、「ベンチを温める人?ずっと座ってる人?デスクワーカー?いや、ベンチだから外か。サッカーの試合の観客とか?」と推理して、答え合わせをする。意味は「補欠選手、控え選手、役に立たない人、窓際族」だそう。そこから“bench”に、補欠選手の意味があることを知る。

“creative acounting”は、「え、クリエイティブな会計?財務諸表のまとめ方がスーパーいけてるのかな。クリエイティブ業界の会計ってルール違うのかな」と挟んで、「粉飾決算、財務記録の偽造」を知る。

“the cherry on the cake”は、「ケーキの上のサクランボ。食べたいな。あ、でもイチゴのほうがいいな。ケーキ食べたいな」とよだれを出してから「魅力的なものにさらにいい点が加わること」という意味を知るので、全身で「たしかにね!」と言える。辞書に「いいね!」ボタンがあったら、押しているところだ。

 

次は、新しい言葉を人に教えてもらう場合。

1-2 人に教えてもらう

「葉桜」はここだ。彼女が「葉桜が好き」と言うまで、私は葉桜を知らなかった。教えてもらって、初めて桜が分化した。葉桜を見られるようになった。ヘレン・ケラーとサリバン先生のようだった。目が見える私は写真を撮った。ストーリー記憶ではない。解像度の上がった瞬間を、瞬間のまま記憶した。

tumblrの記事を書けるようになった日、私は意気揚々と「<br>でね、改行できるようになったよ」とエンジニアの夫に報告した。彼は「そうかそうか」と言って、「“br”は“break”なんだよ。略称には全部意味があるよ。“p”は“paragraph”ね」と教えてくれた。私はこの瞬間も写真を撮った。

どちらの記号も、意味といっしょに、その人のことを思い出す。私が知らなかったことを知っていて、私が見ていなかったことを見ていた人たち。うまく言葉にできないが、教えてくれた時、その人はその言葉とその言葉があらわすものを、好いている感じがした。その人が、その言葉を覚えた時の、わずかな心の動きと合わせて、私に教えてくれたような気がした。いつも、全部をひっくるめて思い出す。

ここまでが、新しい言葉を知る場合の話。

 

次の「すでに知っている言葉の意味を広げること」は、よく仕事でやっていた。言葉は、実際に使われてこそのもので、人それぞれで微妙に定義が違う。

2-1 人に教えてもらう

話の中で、「その言葉を、どういう意味で使っていますか」と訊く。

言葉が人を動かし仕事を進めると知っている人は、日頃から言葉について考えているので、自分の定義を持っている。うまいリーダーは、その定義をメンバーに説明し、メンバーに話をさせて理解を確認し、都度修正を加えながら、また合言葉にしながら、組織の目的を達成していく。私は目的を明らかにしたうえで、上司やキーパーソンの使う言葉から、見ている景色や時間軸をつかみ、自分の定義を加えて仕事にしていたのだが、初期と各マイルストーン、最後のフィードバックで、キーワードの理解を深めていくのがたまらなく好きだった。視点が増え、視野が広がり、視座が上がった。普段の会話は、同じことをやると面倒くさがられるので人と時間を選ぶ。大切にしているんだろう言葉の話を聴けるとうれしい。

 

2-2 観察する
 2-2-1 話しているのを聴く
 2-2-2 書いてあるのを読む

人が話しているところを見たり聴いたり、書いたものを読んだりしたあと、「その言葉を、こういう意味で使っているのですか」と確認する。

「たしかに」と言われることも、「そんなこと考えてなかった」と言われることもある。長年の忙しい日々、思い入れをもって仕事を続けているところで、その人が当たりまえに思っているもの、当たりまえと思わないくらい当たりまえなものを外から追っていると、特徴が浮き出てくることが多い。個人もそう。組織もそう。必要そうなのにそこにない言葉があったとき、あえて口にしたことも、渡さないこともあった。観察は性質上、いつもアウトサイダー感がついてまわる。

 

ここまで書いて、葉桜の1-2のように、新しい言葉を人に教えてもらうのが好きだと気づいた。特別に感じるのは、数がそう多くないからだ。誰かを思い出す言葉を増やしたい。思い出して、「思い出したよ」と言える相手を増やしたい。皆いつか散るのだから、「思い出したよ」と伝えられることを大事にしたいと思う。