キーワードの芋掘り

何気ないことから、おいしい芋を手に入れた。ほくほく。

 

日曜日の朝、近所のファミリーレストラン。たまに「朝食→スーパーへ買い出し」のルートで夫と利用する。この日に通された席の隣には学生が4人いて、勉強をしていた。しゃべりながら、時々プリントの問題を解いていた。私はなぜか気になって、ドリンクバーに行く時やトーストを待つ間、ちらちらと様子をうかがっていた。「勉強って何だろう」と思った。

帰宅して、YouTubeで動画を見た。 “study” で始まって、 “study tips” や “study routine” というキーワードを得た。3日かけてレコメンドやチャンネルを行き来し、海外の大学生の勉強関係の動画を見た。出てくるシーンは大きく分けて、テキストを読む、ノートに書く、パソコンを触っている、だった。思っていたより、パソコンを肌身離さないようだった。

留学経験のある友人に、「どうしてパソコンばかり使っているのか」と尋ねた。講義のノートをとる、レポートを書く、プレゼンを準備する、SNSをやる、の最後に、「編集」と言った。「編集するのも勉強と言っている気がする」。

頭に「編集も勉強」とおいて動画をリピートしていると、たしかにそのように見えてくる。学校の勉強は、教材・講義の情報を編集し、自分が理解・記憶・思考・応用しやすくすることだ。目標と計画を立てる、To doを書き出す、テキストを読んで予習する、章ごとに要約しておく、講義の記録をとる、講義と予習のノートを合わせてリバイズする、課題を解く、レポートを書く、次の授業のプレゼンをつくる、単語帳やクイズレットを仕込んで試験に備える、試験を受ける、合否や評価を得る。リピート。

細かく分けられるようになると、勉強にまつわるキーワードや過程もより見えてくる。何をもっと知りたいか、かゆいところがわかるようになる。海外のユーチューバーが当たり前にやっていることの体系を私も知りたい。勉強まわりの事柄が、日本よりも言語化・体系化されている印象を受けるから。海外の学校の勉強方法を知って、学校の外で勉強することのヒントや刺激を得たい。

YouTubeはキーワードの収集には重宝したが、ピンポイントのものは見つけられなかったので、今度はYouTubeで知ったキーワードをもとに本を探した。ぴったりのものが見つかった。届いたものがとてもよくて、読む前からほくほくしている。

キーワードの芋掘りはもどかしい時間がほとんどだが、そのぶん掘り出せた瞬間が気持ちいい。また掘りに行きたい(1週間じゃなく、日帰り~1泊2日くらいにできるといいな)。

 

 

(私にとっての)保存版:ブログのレシピ 10 Steps

「書く」にテコ入れするなら、現状把握から。私のブログの書き方(2018 ver.)を、私のためにまとめたポスト。

 

1 初めにひとつ、決める
小論文の参考書に載っている、「まず結論から書く」や「1パラグラフに1メッセージ」のようなことに似ているが、少し違う。仕事でもの作りする時に、色々な役割の人が集まる会議で提示されるような、「このプロジェクトで実現したいこと」を決める。視点や取り組み方は数あれど、目的はひとつ、どの段階でも意識するように。できあがるまでの指針、立ち戻る場所。「~~~だと主張したい」というのは、そのひとつの形に過ぎない。硬めの文章の中で、「結論を一文で表し、最初と最後に配置し、真ん中に理由を入れる」こともあるが、サンドイッチばかりつくるのはつまらない。

目指したものの例:
・まちの教室KLASSの読書会:いわゆるレポートの型の探索
・My Life with Words:履歴書フォーマットからの脱却
・クラフツマンシップ:初めての本格的な翻訳
・あまちゃん:水を想起する言葉のループ詩
・風呂の蛇:動と静、蛇口から出てきた興奮の再現
・スタートレック:コテコテのウェブライティングの型作り
・黄昏カフェ(ワードクラウド):議事録やレポートではない記録の型提案

 

2 自分に書く
言葉が意味をもって人に伝わる仕組みが不思議で、どうやったら「言葉にできる」んだろうと考えているばかりなので、その上「人にも伝えられて、共感される」を兼ね備えられるなんて奇跡だと思っている。だから「One of 読み手」に自分を置いて、そこに向けて書く。自分の拡張からしか書けない。どうがんばっても他者にはなれない。現場に行って見聞きしたり、勉強したりして、拡張させた自分にペルソナのお面をかぶせ、なりきることしかできない(マーケティング理論やリサーチのやり方で他者を想定することはできないけど、自分なりの分化、メタモルフォーゼのやり方があるのは気に入っている)。

 

3 道具を選ぶ
ノートは書くためのもの。パソコンは出来上がり間近なものを打ち込み、整えるもの。言葉で何かを作る時の8~9割を、オフライン、アナログでやる。書くことは頭だけじゃなく、全身を使いたいものなので、道具も自分の体の一部のように使いたい。着ていてかわいいとか、うっとりいい女気分に浸れるとかはどうでもいいが、チクチクかゆいのはとても気になる。メーカーの工場の生産ラインには、日々の生産を進める人の他に、生産ライン自体をメンテナンスしたり、改善したりする人がいるのだが、そんな人になったつもりで自分のくせや好み、違和感を覚える瞬間に注意し、よく観察し、策を講じる。3秒の時間短縮、0.5円のコスト削減のような塵とて、積もれば山になる。「自分と道具の一体化」を目指して、小さなひっかかりをひとつずつつぶしていくと、書く時のスイッチの切り替え、没入感が全然違う。

ノートはマルマンのニーモシネ。のびのび考えて広げたいのでA4サイズ。罫線は窮屈なので方眼。紙の色はクリームよりも白。リングノートのリングを左にして、縦方向で使う。シャープペンは2B、0.5。カヴェコのペンシルスペシャル、本当に手になじむ。ほどよい重さ、太さ、かつ鉛筆のような形。筆記具を手に、部屋の壁を背にして体育座り、周りに参考資料を置いておき、体、特に足が冷えないようにしておくことが、書く前のお決まりルーティーン。書きたい気分だろうがなかろうが、すぐに没入できる。

パソコンはMac、Windows、どちらも長年使った上でWindows派。Macはパソコンと手首の接触部分が痛くなりがち。日本語の予測変換には、カスタマイズしても使いにくさが残る。書くためのアプリは「メモ帳」がベスト。キーボードは浅すぎず深すぎず、押した感覚がしっかり残るものが好き。タブレットや薄型が主流の時代、いつか離れる日が来るのが心底嫌なくらい、レノボのX260を愛している。ThinkPadのキーボードは本当にすばらしい。

 

4 書き出して、そのままにしておく
とにかく、頭から出す。文章じゃなくてもいい。単語だけとか、絵とか、本題とは違うけど思いついたこととか。最初からデジタルだと、書き出す・書き広げるのがリニア(線状)になるし、Deleteキーを押しがちになる。書いたものをDeleteキーで消してしまうのと、書いたものの上に線を引いて消すのでは、同じ「消す」でも意味が違う。消した跡を残すのは、私が頭の中の言葉を出し切るには必要なこと。出し切ると、頭は自然と次に行く。消した跡も含めて、ごちゃごちゃした文字の集合から、連想や新しいアイデアが生まれやすい。

 

5 書き出して、ボツにする
次の種類のものは、出し切ってからバツ印をつける。

・すでに頭の中でできあがっているもの
「書きたくてしょうがないもの」だが、書くことによる伸びしろがないものは、おもしろくない。「文章になるかどうかわからないけど、強く惹かれた出来事や言葉があり、連想やら何やらで遠くまで行き、結果思いもよらないものが出てきた」が好き。

・妙に説明的なもの
「すでに頭の中でできあがっているもの」に似ているが、加えて、書き出した時に言葉が硬いことが多い。硬めの文章が、意図せず勢いよく出てくる時は、頭のどこかに「私は悪くない」「あの時悲しかった」など、怒りや悲しさ、悔しさがある。無意識に、誰かに説明して、わかってもらいたくなっているよう。文章を書くことのメリットとして、「言語化することで自分と向き合える。癒される」があるらしいが、私はこういう類のことを書きあげるのが疲れるし、あとから読みたくもならないので(=正確には、疲れるし読みたくもならないことに気がつくようになったので)、ブログに発展させる必要を感じない。「長文を書いているうちに気づく」しかないので書き出しはするが、説明的だと気づいた時点でお役目終了である。

 

6 言葉をなぞる
コンピュータで数字から変換される文字と違って、アナログは書かなきゃいけない。頭を拡散モードにして文字を書いていると、言葉のひとつひとつをなぞれる。「さんずいだ」とか「さっきから漢字ばっかりだな」「類語はなんだっけ」など、意味はもちろん、音や字面やイメージを触りながら進むことができる。辞書で調べたことは一緒にメモする。速くないし、疲れるけど、楽しい。「書くことがない」と止まることがない。

 

7 「書き出す」と「赤入れ」は別々に
出てきたものを否定せずに書き続けていると、じきに構造が浮かび上がってくるので、ページを新しくして整理整頓をする。「書き出す」は一気に集中的におこない、「整理整頓」とは段階を分ける。無邪気で、まっすぐで、ぐんぐん進み、時に論理を無視して飛躍する子どもは、カッチリスーツに眼鏡を光らせ、感情を挟まず冷ややかに仕事を片づける大人、分析家・批評家を怖がる。萎縮してしまうので、登場シーンは分けなければいけない。先に拡散、あとで収束。どちらも大切。

 

8 デジタルは1割
パソコンは、すでに決まりかけている構造やまとまりを打ち込み、整えるために使う。私にとってデジタル化は、固めるためのもの。もともとリニア(線状)の構造をもつ文章が、数字やフォントのおかげでよりリニアの色を濃くして固められる。均一で、流れるように読めるようになり、音や字面にも注意を向けやすくなる。デジタル空間に打ち込む、整える作業も(レノボのおかげで)好きだが、全体の1割で、アナログの9割があってこそ。

 

9 音読する
声に出して読む。つっかえたり、音の重複があったり、どこか気になる時は、考えて、他のものに交換することがある。簡潔で、読み上げやすく、綺麗なものならオールオッケーなわけではなく、あくまでも目的に合うかどうか。あえて汚い音にしたり、強弱をつけたり、スピードをつけたりすることもある。話し言葉を部分的に入れるのは、リズムをつけるため。

 

10 眺める
余白、ひらがな、カタカナ、漢字のバランスを考える。こちらも目的に合わせて、漢字を多めにすることも、ひらがなだらけにすることもある。表記の揺れは気づく範囲で修正する。投稿ボタンを押した後、レスポンシブチェッカーで確認して完了。

 

 

夜は短し歩けよ小娘

初めての万年筆は、プレゼントでもらったパイロットのソネットだ。大学に入って、シェイクスピアのソネットを読み始めたころ。インクはブルーブラックのカートリッジ。スクリュー式ではない、ただカチッとはめるタイプのキャップは、機動性に優れる。万年筆を使ったことがない贈り主と、使ったことがない私と、万年筆を、デパートの店員さんがちょうどいい具合に結びつけてくれた。もしあの時のインクがブラックだったら綺麗と思わなかったし、中が吸引式だったら、キャップがスクリュー式だったら、面倒に感じて使い続けなかった。

3年が経ち、東京を出るころ、他の万年筆も使ってみたくなった。他の色のインクにも興味があるし、吸引式も試してみたい。ということで、大井町のフルハルターに行った(2018年2月、我孫子にご移転)。

フルハルターは、長年モンブラン社で働いていたペン先調整の職人、森山さんのお店。お客さんの書く角度に合わせて研いだペン先の万年筆を販売している。万年筆好きなら一度は名前を聞いたことがある、とも言われるくらい、有名なところだ。

出入りしていた学会で知り合った文房具好きの人が、「フルハルター、 『えむせん』がいいよ」と言っていた。住所が私の家の近く。「ほ!ちょうどいい!えむせん!」、ひょいと予約して出かけた。

今思えば、「えむせん」が何なのか調べておくべきだったし、フルハルターへ行く前に丸善や伊東屋へ行っておくべきだったと思う。自分で万年筆を買ったことのない小娘が最初に行くには、ステップを飛ばしすぎていた。マサラタウンを出たサトシが、レベル15くらいのゼニガメと、森でつかまえたピカチュウとコクーンを連れて、ジムマスター、いや四天王に、「ちわーっす、よろしくおねがいしまーっす☆」と戦いを挑みに行くようなものである。ちょろっと歩いてきた経験と、ものおじのなさ、元気しかない。

ビルの1階の狭いスペースに、机と椅子があった。森山さんが、品物を受け取りにきたお客さんと歓談していた。入れないので外で待つ。予想に反し、文房具屋さんのような佇まいではなく、冷や汗が出始める。漏れ聞こえる「この前の〇〇は~~で」とか「++のインクと&&の組み合わせが粋で」などの万年筆談義、意味がわからない。

順番が来て、どんなものをと聞かれて、「えむせんを…」と答えるときには元気がなくなりかけていた。出てきた「えむせん」、ペリカン社スーベレーンのM1000。長さ約18cm、重さ約35g。小3で成長が止まった私の小さな手には習字の筆のようにバカでかく、もうほんとにお前何しにきたという気持ちでいっぱいだった。

気を取り直して選ぶ。フルハルターで主に取り扱われているスーベレーンには、サイズが300、400、600、800、1000とあり、数字が大きくなるのに合わせて万年筆の大きさも上がる。1000は大きくてだめ、300は日常使いには小さすぎる。400、600、800、どれにしよう。

「えむせん」を出してきたところからずっと、森山さんには見つめられ続けている。待たれている空気に耐えられなくなって、「えっと、これ、ですかね?」と聞いた。鋭い表情を変えないまま、すぐに「ご自分で選んでください」と返された。

えらいところに来てしまったと反省しながら、時間をかけて400を選んだ。ポケモンの「きみにきめた!」のようなまっすぐさはなく、これよりはこっち、こっちよりはあっち、の消去法の結果に過ぎない。すると森山さんが口角を上げて、「ええ、私もそれがいちばん合っていると思います」とおっしゃった。

次は、ペン先を太いBから細いEFに研ぎ出してもらうための、筆記角度の確認(一般的なお店では、この研ぎ出しをやっていない。BならB、EFならEFのペン先を買う)。私は万年筆を鉛筆のように持つのが好きだし(寝かせて持つのが好きじゃない)、鉛筆の持ち方も正しくない。正しい持ち方の話をされるものだと思っていたけど違った。「あなたは立ててお書きになるから、それに合わせます」とだけ。残りの時間、次のお客さんが来るまで、万年筆のお話をうかがった。

 

数週間経ち、小包で届いた。自ら調合したというグリーンのインクで書かれたメッセージカードが入っていた。

インクを吸引させて使ってみたら、ソネットとの違いに驚く。するする書ける! ソネットは3年経っても書き味がカリカリなままなのに。楽しい!

厳しく突き放したり、手に合わせて研いでくれたり、深み・おもしろみを教えてくれたりと、とことんやさしいお店、人だと思った。

 

フルハルターに行かなかったら、ソネットのカリカリが当たり前だと思っていたし、服のような「自分に合う合わない」が万年筆にあると知らずにいたし、自分のくせをくせのまま肯定することもなかった。手にとるたびに、なめらかな書き味によろこびながら、濃密な体験を思い出して自問する。

自分で決めているか?
自分を肯定しているか?
楽しんでいるか?

 

 

共感を通り過ぎた先で

共感されないことを、よりどころにしている。

 

繰り返してきたパターン。ありものを口に入れ、咀嚼し、飲みこみ、出てくる感情を注視する。食わず嫌いだったのを反省するくらい嬉しいとか、言葉にできないけど変な感じとか、ひどいアレルギーのような憤りとか。出てきた感情をエネルギーにして、ありものを変えたり、新しくつくったりする。

大勢の人が話す、ありものの言葉。求めていたものと、偶然ぴったりと合うことがある。手っ取り早く飛びついて、信じ、無意識にだまされることもある。いずれにしても、使う人たちは同じ言葉を共有し、共感しあう。そこは心地いいし、安心できるし、自信ももてる。

私も初めはとりあえず、大勢の人が話す、ありものの言葉を使う。使って、違和感をおぼえて、横を通り過ぎることになる。何度も繰り返していれば、使う前から「たぶん違和感を抱くだろう」と先を読めるようになる。それでも一度は体に入れて確かめるのは、通り過ぎた先にあるものが欲しいからだ。

 

上司とうまくいかず会社を辞めようと思ったときも、まずはよく聞く言葉を体に入れた。「やりがいがない」「ロールモデルがいない」「先が見えている」「もっと好きなことをやりたい」「成長したい」「モチベーションが上がらない」とか。しっくりさせようとしてもしなくて、頭の中で論破が進んだ。

・やりがいがない、先が見えてつまらないなら、自分で新しくつくればいい。
・人事の仕事は「昔からやりたかったこと」ではないが(就活するまで知らなかった)、言葉を使って研修をつくる、という意味では、やりたかったことのど真ん中である。興味の対象が「言葉」なので、幸か不幸か、何をしても昔からやりたかったことになる。
・ロールモデルがいないなら、自分がなればいい。
・成長は、何をもって成長か。毎日必死に生きていて、前よりはいい状態だ。というか、若者が典型的に陥るこの状況を、他と違う形で脱するのも成長の手段だ。
・優秀な人ほど、モチベーションの上がり下がりに影響されず、毎日淡々と仕事を仕上げていく。モチベーション論はナンセンス。
・「今の若い世代は、前の世代と違って安定を求めず、挑戦を好む」という言い回しもよく聞くが、仮想敵をつくって仲間意識を高め、自己肯定したいだけだ。これを繰り返しているという意味で、他の世代論と変わらない。
・安定した場所には、保守性もあるが、蓄えてきた設備、技術、知財、人材、キャッシュ、社会的信用もある。使いようだ。挑戦に利用するために、安定した場所を選んだ人は多くいる。

すべて辞める理由にならない。

 

そうして私は、一度体に入れた「辞める理由」「働く理由」を出し、通り過ぎた。逃げようとしていただけだと気づいた。若者をむやみに煽る人たちにいらだった。「共感されないような、自分の切実な理由にいたることができたら、それを信じて辞めることにしよう。どこかで聞いたストーリーや、多くの人に共感されるものは、おそらく “私にとって” 嘘だ。それまではできることをやりつくそう」と決めた。入社理由を思い出し、言葉を更新した。

 

・2009年面接時: 「ひとりでやっていたものづくりを、人と一緒にやりたい」
・2011年: 「自分のものづくりの方法、つまり言葉や意味やイメージを手がかりにものをつくることが、社会で通用するのか、人と協働することができるのか、何が喜ばれ、何が喜ばれないのか、始まりから終わりまでに何が起こり、私が何を感じるのかを仮説検証したい」

 

6年経ってこの仮説検証が終了し、次の目標ができ、次に行くことにした。社会学のフィールドワークのように、ある場所を調査して、終わったから次、というのが、「私の」「20代の」働き方と辞め方だった。

 

大勢の人が話す、ありものの言葉、ストーリー。求めていたものと、偶然ぴったりと合うことがある。手っ取り早く飛びついて、信じ、無意識にだまされることもある。そこを通過して、手にできる言葉もある。共感されること同様に、共感されないことも心のよりどころになるのだ。

 

 

創造力をいかに定義し、自己開発するか―『納得の構造』 読んで考えたことのまとめ

『納得の構造―日米初等教育に見る思考表現のスタイル』を読んで、これまでの人生で考えてきたことと、次の目標についてまとめた。

本の内容のまとめはこちら。

創造力はいかに定義され、教育されるか―『納得の構造』 読んだ内容のまとめ

 

『納得の構造―日米初等教育に見る思考表現のスタイル』に、日本の初等教育では、とりわけ「共感」が重視されると書かれていた。

日本の歴史教育、作文教育では、いずれも「共感」が「手段」である。歴史の授業では、知識を理解し記憶するために、共感を利用する。アメリカのように、歴史教材を使って分析力をつける教育もうらやましいと思うが、日本式の、時系列・出来事・人物を物語のようになぞり、記憶していくのも悪くない。過去の出来事である以上、一定の答えが存在するからだ。児童に記憶させるために、おもしろい、記憶に残るような授業や方策の工夫がされている。

もやもやしたのは作文の授業だ。共感を手段にして、共感的な人格をつくる。ある出来事に対して、「子どもらしい」「人間らしい」感情があり、それらを身につけ、文章にする訓練を行う。同じような感情しか持ちえない課題で、同じような感情を抱くに行きつかせる。言葉は自由に書いてよいのだが、術を習っていないから、似たような言葉しか出てこない。それでも、素直な言語表現とみなされて、褒めてもらえる。褒められれば、児童はそれでよい、そうあるべきと思ってしまう。ここでは、皆同じように子どもらしく、人間らしい感情をもち表現することが、個性や創造性とされる。

じきに学校を卒業して、大人になる。皆同じように大人らしく、人間らしい感情をもち表現することが、個性や創造性とされるだろうか。社会、会社で求められているのは、「皆と同じように」の逆ではないか。著者は、「規範の模倣から生まれる多様性と、選択肢なき自由から導かれる類似性」という、それぞれアメリカと日本の初等教育におけるパラドックスを指摘している。私は、日本が人々に提示する「個性や創造性の定義」が、初等教育後、大学や就労のタイミングで変化することを指摘したい。つまり国が教育で使う定義と、人々が社会・経済活動で使う定義に乖離がある。定義する人が違うのでそりゃ乖離する、とも言えるが、定義を適用され、評価を受けるのは一貫してひとりの人間である。普通に生きていて、あるところで価値基準がいきなり変わり、順応を強いられ、評価されるのだからたまらない。

私の話だ。

小学生時代が、求められる一般的な感情の解や文字、作文のルールを覚える期間だったとすれば、中学生時代は、アメリカ式のライティングをかじった時期だった。英語のスピーチライティングがきっかけで、エッセイや物語の構造、主張と理由の書き方、ユーモアや比喩でふくらませるやり方を個別に教わった。毎日要提出の連絡帳には、英語の日記を書き、英語の教師に添削してもらった。自分で書いてみると、日本語と英語で物事の見方が違うんだとよくわかった。見方が違い、切り取り方が違うと、表現が違った。素朴な表現を場に合わせて変えることは、メイクや服を変えるみたいで楽しかった。同じ感情を抱き、素直に書き、結果が似たような顔の文章よりも、「見方×切り取り方×表現」で表情が変わる文章のほうが、つきあっていて居心地がよかった。

「見方×切り取り方×表現」のうち、見方・切り取り方の部分で、どうにも人に伝わらないことがあった。「ぐふふ♥」と感じることが、心を動かされるポイントが、なんか人と違った。「私はそう感じるんだから仕方ない」とは思っていたものの、相手が混乱したり、不審に思ったりする気持ちも理解できた。共感するにも、何が何だかわからないのは怖い。あれこれ試してみて、論理性・構造・型を使うと、相手を混乱させにくくなると知った。だから型があるんだと合点がいった。型があると、相手がわざわざ初めから情報を整理しなくてもいい。考える道筋を意識すると、人に伝わるようになった。部分的に、あえて逸脱することもできるようになった。「見方×切り取り方×表現+論理性」が、私が何かをつくること、創造性の定義になった。何かをつくることの積み重ねが個性だと考えた。

高校に入ると、受験勉強ばかりになった。同じような感情を、(結果的に)同じように書く練習をした時期を経て、そもそも書かなくなる時期が来たのだ。英語のクラスで、長文を書くことなんてめったになかった(都会のエリート校ならあるかもしれないが、少なくとも田舎にはなかった)。数行の英作文しか書かなかった。国語の授業では、古文・漢文に時間を割くようになり、現代文の読み書きの比率が小さくなった。小論文試験の対策で、初めてアメリカ式のエッセイの型のようなものが教材に出てきたが、志望校に科目がなければ取り組まない。小論文が嫌で、小論文試験がない学校に絞る人もいた。堅牢な型の小論文すら、書かない人のほうが多いのである。クリエイティブライティングのような、ふわふわっとしたイメージが先行する書きものの時間など、入る余地がない。実は「表現の選択肢を増やすための型」なのだが、必要とされていない。

書かない環境が不思議だったので、地下活動的に実験をしていた。「見方×切り取り方×表現+論理性」の公式で文章を書き、大人のところに持って行ったり、全国規模のコンクールに出したりした。創造性の公式でものを作り続けられるのかの実験と、それが社会に通用するのかの検証と、改良のためのフィードバックが、サイクルとしてうまくまわるようにした。活動の結果、「この公式、たぶん大事にせんといけんやつや」と結論づけた。

小中高と書いていたから、求められる個性と創造性の定義が大学で大きく変わったこと、周りの同年代の人たちが動揺し始めたことには敏感だった。たとえ似通ったものでも表現を褒められ、強化されていたのが、急に違いを求められ始めた。アメリカ式は、そもそも人間はお互いに違う、違うままでしかありえないという考えのもと、存在が肯定されていて、技術としての型を与えられる。日本では、別々の人間なのに、初めは同じようになるようプログラムされ、そのあと違うようになれと要求される。存在の変容を強いてくる。意味の変わった「個性的に」「創造的に」のスローガンに、事前アナウンスも、技術の教育もない。

話が難しくなるのは、就活・研修・配属先・仕事で、「個性・創造性」+「協調性」という矛盾する項目が、同等の優先順位で求められることである。求められる「個性的に」「創造的に」の実現方法がわからず、とまどい、悩む。何か奇抜な策を打つと、協調性がないと叱られる。「これだから若手は」とか「ゆとりだから」と世代論が始まる。両方を達成しようとしても中途半端になり、どちらか一方を優先させても非難を浴びる。何を目指して、何をどうがんばればいいのか。考えられることは考え、やれることはやり、そのうえで手詰まりになるのだ。かといって「社会ってそんなもんだ」と諦めたくもないのだ。人事部にいて、数百人の新人や若手社員と関わった。混乱の根っこが似ていたと思う。スマートに打破できた人、ボロボロになってやっとどうにかできた人、結局諦めた人、考えないようにしている人、退社した人、病んだ人、いろいろいた。

個性・創造性の定義の、ひそやかな、急激な変更は暴力的だ。教育に関わる人たち、経済に関わる人たち、両者は明言を避けながらも、静かに、確実に各々の定義を各々のシステムに組み込み、運用を続けている(個人で尽力されている人たちもいる。ここで言いたいのは組織的な、無意識的な、もっと大きな話だ)。

次世代、子どもへの教育をどう変えていくかの議論はもちろん重要だが、その議論を行う、すでに学校を出てしまった私(たち)が何を目指し、どうすればいいのかを考えるのも必要だ。私は共感重視、矛盾を含む目標、ゆえに物事の結果が出ず進まない、どこか不穏な空気の社会の中で、残りの時間、どう言葉を扱い、発言していくか、個をつくっていくか、人と関わっていくかをもっと考えたい。私が個をつくってきた創造性の履歴はいつも書き言葉だった。今は次の手がかりを考えるために、いろいろな国・文化・分野・型の文章を読むことと、真似して書いてみること、新しい型の研究開発を進めているところだ。まだまだ実験は続く。いつか何かしらの形にできたらいいなと思っている。

 

<参考文献>
渡辺雅子『納得の構造―日米初等教育に見る思考表現のスタイル』、東洋館出版社、2004年。