夜は短し歩けよ小娘

初めて自分で万年筆を買ったときのこと。大井町時代のフルハルター、忘れがたい体験。

 

初めての万年筆は、プレゼントでもらったパイロットのソネットだ。大学に入って、シェイクスピアのソネットを読み始めたころ。インクはブルーブラックのカートリッジ。スクリュー式ではない、ただカチッとはめるタイプのキャップは、機動性に優れる。万年筆を使ったことがない贈り主と、使ったことがない私と、万年筆を、デパートの店員さんがちょうどいい具合に結びつけてくれた。もしあの時のインクがブラックだったら綺麗と思わなかったし、中が吸引式だったら、キャップがスクリュー式だったら、面倒に感じて使い続けなかった。

3年が経ち、東京を出るころ、他の万年筆も使ってみたくなった。他の色のインクにも興味があるし、吸引式も試してみたい。ということで、大井町のフルハルターに行った(2018年2月、我孫子にご移転)。

フルハルターは、長年モンブラン社で働いていたペン先調整の職人、森山さんのお店。お客さんの書く角度に合わせて研いだペン先の万年筆を販売している。万年筆好きなら一度は名前を聞いたことがある、とも言われるくらい、有名なところだ。

出入りしていた学会で知り合った文房具好きの人が、「フルハルター、 『えむせん』がいいよ」と言っていた。住所が私の家の近く。「ほ!ちょうどいい!えむせん!」、ひょいと予約して出かけた。

今思えば、「えむせん」が何なのか調べておくべきだったし、フルハルターへ行く前に丸善や伊東屋へ行っておくべきだったと思う。自分で万年筆を買ったことのない小娘が最初に行くには、ステップを飛ばしすぎていた。マサラタウンを出たサトシが、レベル15くらいのゼニガメと、森でつかまえたピカチュウとコクーンを連れて、ジムマスター、いや四天王に、「ちわーっす、よろしくおねがいしまーっす☆」と戦いを挑みに行くようなものである。ちょろっと歩いてきた経験と、ものおじのなさ、元気しかない。

ビルの1階の狭いスペースに、机と椅子があった。森山さんが、品物を受け取りにきたお客さんと歓談していた。入れないので外で待つ。予想に反し、文房具屋さんのような佇まいではなく、冷や汗が出始める。漏れ聞こえる「この前の〇〇は~~で」とか「++のインクと&&の組み合わせが粋で」などの万年筆談義、意味がわからない。

順番が来て、どんなものをと聞かれて、「えむせんを…」と答えるときには元気がなくなりかけていた。出てきた「えむせん」、ペリカン社スーベレーンのM1000。長さ約18cm、重さ約35g。小3で成長が止まった私の小さな手には習字の筆のようにバカでかく、もうほんとにお前何しにきたという気持ちでいっぱいだった。

気を取り直して選ぶ。フルハルターで主に取り扱われているスーベレーンには、サイズが300、400、600、800、1000とあり、数字が大きくなるのに合わせて万年筆の大きさも上がる。1000は大きくてだめ、300は日常使いには小さすぎる。400、600、800、どれにしよう。

「えむせん」を出してきたところからずっと、森山さんには見つめられ続けている。待たれている空気に耐えられなくなって、「えっと、これ、ですかね?」と聞いた。鋭い表情を変えないまま、すぐに「ご自分で選んでください」と返された。

えらいところに来てしまったと反省しながら、時間をかけて400を選んだ。ポケモンの「きみにきめた!」のようなまっすぐさはなく、これよりはこっち、こっちよりはあっち、の消去法の結果に過ぎない。すると森山さんが口角を上げて、「ええ、私もそれがいちばん合っていると思います」とおっしゃった。

次は、ペン先を太いBから細いEFに研ぎ出してもらうための、筆記角度の確認(一般的なお店では、この研ぎ出しをやっていない。BならB、EFならEFのペン先を買う)。私は万年筆を鉛筆のように持つのが好きだし(寝かせて持つのが好きじゃない)、鉛筆の持ち方も正しくない。正しい持ち方の話をされるものだと思っていたけど違った。「あなたは立ててお書きになるから、それに合わせます」とだけ。残りの時間、次のお客さんが来るまで、万年筆のお話をうかがった。

 

数週間経ち、小包で届いた。自ら調合したというグリーンのインクで書かれたメッセージカードが入っていた。

インクを吸引させて使ってみたら、ソネットとの違いに驚く。するする書ける! ソネットは3年経っても書き味がカリカリなままなのに。楽しい!

厳しく突き放したり、手に合わせて研いでくれたり、深み・おもしろみを教えてくれたりと、とことんやさしいお店、人だと思った。

 

フルハルターに行かなかったら、ソネットのカリカリが当たり前だと思っていたし、服のような「自分に合う合わない」が万年筆にあると知らずにいたし、自分のくせをくせのまま肯定することもなかった。手にとるたびに、なめらかな書き味によろこびながら、濃密な体験を思い出して自問する。

自分で決めているか?
自分を肯定しているか?
楽しんでいるか?